2010年11月05日

5.心のとげ

「宗太郎、ちょっと、宗太郎ったら!」
 綾子は宗太郎の部屋のドアを、ひたすらノックし続けた。
「ねえ、開けてよ。宗太郎ったら、ねえ!」
「ほっとけよ」
 綾子がドアの向こうの宗太郎に呼びかけ続けているところで、敬次郎が口をはさんできた。
「敬次郎……」
「しょせん、兄ちゃんはあの程度のヤツだったんだよ。何言ったってむださ」
「そんなこと言うもんじゃないわよ。あの子はあの子なりに、悩みをかかえているんだから」
 そのとき宗太郎は、部屋の中で床に寝転がっていた。以前の宗太郎にもどったようだった。
 なぜ、このようなことになったのか? それはその日、宗太郎が教習所での教習の際に起こった、あるできごとがきっかけだった――

「ああ、ほら、またそこでエンストだ」
 その日の夕方に近いころ、丸木が原自動車教習所で、宗太郎は二輪車の技能教習を受け続けていた。
 かれこれ五回、二輪車に乗っている宗太郎だが、運転が思うようにいかない。宗太郎は走行中に、必ずといっていいほどエンスト、つまりエンジンがみずからの意思によることなく止まる状況におちいる。よって、スムーズな走行を続けることができない。
 加えて、宗太郎には個人的にかなりの衝撃となったものを、その日は見てしまった。
 入所ガイダンスのときに受けたテストの結果が出た。教習原簿にはさまっていたのだ。実は、これは運転適性テストで、その人が運転をするにあたってどれだけ適切な行動や思考ができるかを見るものだった。
 宗太郎は全体的にかなり低い値が出ていた。その結果、総合的な評価は「D」。五段階評価の下から二番目だった。宗太郎は、いきなりやる気と自信を失わされた気分におちいった。そんな気分で教習は始まり、そんな気分のままで宗太郎は教習を受けていた。
 今受けている二輪車の教習。これには数々の課題がある。

 ・細長い橋の上を落ちずに走る「一本橋」
 ・幅がせまく、かつ曲がっている道を走る「S字カーブ」「直角クランク」
 ・連続してすばやく小回りをしていく「スラローム」
 ・直線を走って、所定の位置でブレーキをかけ、一定の距離で停止する「急制動」
 ・上り坂で停止し、そこから発進する「坂道発進」

 これらの課題を、教習を通じてやっていき、できるだろうと指導員から認められれば、全二段階の教習のうち、第一段階は合格である。
 しかし宗太郎は、いまだ満足に走ることすらおぼつかない状態だった。このままだと、第一段階さえも通過できるかどうか、あやしいところである。
 宗太郎は発進の時点から、うまくいかない。発進のときはギアを一速に入れ、半クラッチから動力を徐々に伝えながらアクセルを開いていく。宗太郎は頭の中では手順がわかっている。それを実際にしようとすると、うまくいかないのである。
 エンジンの動力を車輪へつないだり切ったりする装置、クラッチ。それを動力がつながりかけの状態にすること――これが半クラッチである。クラッチレバーの動き幅の中で、どのあたりで半クラッチになるかを、自分自身で実際にやって覚える必要がある。
 しかし宗太郎は、その半クラッチの位置が、どうしてもつかみとれなかった。急にクラッチをつないでエンストを起こしたり、またつながっていないためにエンジンを空ぶかしさせたりしてしまう。発進のときから、もたついてしまうのだ。
「クラッチは、切るときは速く、つなぐときは『じわっ』と、だぞ。同じことをくり返すなよ」
 その日の指導員は垣内だった。初日で厳しい言葉を投げつけてきた人である。
 宗太郎には、垣内の言うことが具体的にどのようなことなのかが、理解しづらかった。切るときの「速く」はできるが、つなぐときの「じわっ」が、どれぐらいの速さなのかが、わかりづらいのだ。
 宗太郎はなんとか発進できると、コースの外周を走った。しかし宗太郎はギアを一速にしたままで、変速をせずにエンジンをふかしながら走っていた。
「いい加減、二速に変えて。エンジンがうるさいから」
 宗太郎が乗るバイクについているスピーカーから声がした。後ろについてバイクを走らせる垣内が、無線機を使って言ってきたのだ。
 宗太郎は指示どおりに、クラッチを切ってギアを二速に変えた。しかしまたクラッチを急につないでしまい、バイクは一瞬たて方向にガクンとゆれた。
「さっきまた、クラッチを急につないだだろう。『じわっ』だって言っているだろう」
 またスピーカーから垣内の声が聞こえた。宗太郎自身、それは何度も言われたことでわかってはいるのだ。それでも実行するとなると、それが難しいのだ。
 やがて宗太郎は、外周から内側のコースへと入った。途中に一時停止の標識がある地点があった。宗太郎は垣内の指示により、その地点で停止した。
「左右を見て確認をして、よかったら右折しよう」
 垣内にそう言われた宗太郎は、言われたとおりに前方の道路の左右を見た。しかし発進しようとしたとたん、ガクンとエンストした。ギアを二速に入れたままにして発進しようとしたからだった。
「二速ギアで発進しただろう。止まるときに一速にもどせよ。それに出ようとしていたとき、右から車が来ていたぞ。何を確認していたんだ。あと、ウインカーで合図も出していない」
 垣内の強い口調の声がひびく。
 垣内の言うとおり、宗太郎は左右を見るとき、本当にただ「見た」だけだった。それが「左右両方から車が来ていないか」を確認する、ということだとは気づかなかった。
 宗太郎はもう一度、その地点からの発進に挑戦した。エンジンをかけ直し、今度はギアを一速に入れて発進し、右折した。うまくいったと思った宗太郎だったが、垣内からは注意を受けた。
「合図を出し忘れ! 右のウインカーを出すのは基本だろうが」
 そう言われても、今の宗太郎にはバイクを走らせるだけで精いっぱいなのだ。同時におこなうことが多く、さばききれない。やろうとするとどこか欠けてしまう、それが宗太郎の運転だった。
 次に宗太郎は坂道へと来た。上り坂を登る途中で、停止するよう指示が出た。
「よし、じゃそこから発進だ」
 坂道発進。これは宗太郎がもっとも苦手に思う課題である。やり方は「ブレーキをかけた状態でアクセルを開き、半クラッチにしてブレーキをゆるめる」。これも頭の中ではわかっているのだが、いざやるとなると、決まってエンストしてしまう。
 まずアクセルを開く。ブオーンという音がひびく。そして今切っているクラッチを半分だけつなぐのだが、宗太郎はそれと同時にブレーキをゆるめてしまい、車体が後ろに下がりそうになったことであわてて、急にクラッチをつないでしまった。前にのめってエンストである。
 再度挑戦した。しかし今度は、ブレーキをかけたままクラッチをつないでしまい、それでまたエンスト。
 三回目、四回目もうまくいかず、その様子を見ていられなくなった垣内は、宗太郎の横にバイクを止めた。
「何をこんなところで悩んでいるか。さっさと出発しないと、他の教習生もここを通るんだから、迷惑になってしまうだろうが。わかっているのか!」
 また宗太郎の心に突き刺さりそうな、垣内の厳しい言葉だった。
「もう、ギアをニュートラルに入れて、降りて押して登れ」
 その言葉のとおりに、宗太郎はバイクを降りて、押して坂を登った。平地でも重く感じるバイクは、上り坂ではさらに重さが増す。腕に力を入れ、汗をかきフーフー言いながら、どうにか頂上まで登った。
 宗太郎はこのとき、とてもみじめな気分におちいった。坂道発進がちっともできなかったことで、自分が情けなくなった。垣内からどなられ、坂道でバイクを押して歩かされたことで、自分がイジメをうけているように感じてしまった。宗太郎は自分が悲劇の主人公になったような気分だった。
 また横に垣内が来た。
「クラッチ操作とブレーキ操作のタイミングのバランスが、全然ダメ! あんなに手間取るようじゃあダメだよ。基本的な操作が全然わかってないよ、きみ」
 そう言われたことで、ついに宗太郎は心の中にためこんでいた「我慢」が「怒り」に転化した。そしてあろうことか、こんなことを口走ってしまった。
「あんたの教え方が悪いからじゃないんですか」
「な、なにいっ」
 垣内は一気に血が頭にのぼった。自分に対する反抗とみた垣内は、宗太郎にどなり声をあげた。
「何だその態度は! こっちは教えているんだぞ! わかっているのか、おい!」
 しかし宗太郎は何も答えず、ぷいと横を向いた。それが垣内には「さらなる反抗」と見えてしまい、ますます感情的になって叫んだ。
「ええい、もう終わりだ! 終わり! 教習は終わりだ! そんな態度を取るヤツに、ハンコは押さない!」
 垣内は怒りながらバイクを走らせ、そのまま去ってしまった。
 宗太郎は坂の頂上で、ひとり残された。この上ないむなしさが、宗太郎の心を包んだ。
 運転適性テストでの低い評価、バイクの運転がうまくいかないいらだち、指導員の厳しい言葉、その三つの組み合わせは、宗太郎の心に無数のとげとしてささっていた。そこに垣内が放った「終わりだ」の言葉。これで宗太郎は、決定的にとどめをさされた気分におちいった。
 もう、自分にはバイクの運転などできっこない。挑戦しないほうがよかったかもしれない。ここに来たのは間違いだった。宗太郎の頭の中は、そんな後悔の念ばかりになっていた。

 家に帰ってからも、宗太郎の表情は暗かった。ソファに腰を下ろし、顔をふせるようにうつむいて、深いため息ばかりをつくのだった。
「何かあったの?」
 通りかかった綾子がたずねた。しかし宗太郎は無言のままだ。
「教習で、何かつらいことがあった?」
 なおも宗太郎は無言である。
 綾子はもどかしい思いだった。見るからに深刻な悩みをかかえている様子なのに、宗太郎本人はそれを口にすることがない。変に意地を張っているのか、自分に助けを求めようともしてこない。少しでも力になってやりたいのに、どうしてなのか。そんな思いだった。
 もどかしさを引きずりながら、綾子は話題をかえて宗太郎に話しかけた。
「あのね、宗太郎。あなたに前もって言っておきたいことがあるの」
 宗太郎はちらりと綾子の顔を見た。しかしすぐに元のとおり視線を下に向けた。
「今から一か月ぐらいあとにね、お母さんと病院へ検査に行ってもらうから」
「検査?」
 宗太郎はまた視線を綾子のほうへ向け、また元にもどした。
「そう。宗太郎には普通の人とは違うところが多くみられるから、一度検査をしてもらったほうがいいと思って。それで……」
「おれの頭がおかしいってことだな」
 綾子が話している途中で、宗太郎が突然顔を上げて言った。
「いや、そうじゃなくて……」
 綾子はとまどった。しかし宗太郎は、綾子にかまわず声を張り上げて言った。
「そうじゃないか! 普通の人と違うんだろう? 母さんもおれを頭のおかしなヤツだと思っているってことじゃんか!」
「違うわよ。誰があなたを頭がおかしいだなんて思うの」
「みんな、みんなだ! おれはいつも、どこ行っても、変なヤツだとからかわれてきた。だから、母さんからは『自分を変えるようにしなさい』って言われた。おれはそのとおりにしてきたんだ。なのに、ちっとも変わらない。だから母さんも、おれの頭がおかしいんだって、そう思ったんだろう」
「そんなこと、思ってません!」
 綾子はつい口調が強くなった。
「うそだ! おれは頭がおかしいんだ。おかしいから、学校でもイジメられる。おかしいから、バイクにもうまく乗れないんだ!」
 宗太郎は立ち上がり、自分の部屋へと走っていった。
「待ちなさい、宗太郎!」
 そう綾子が言っても、宗太郎はもどらなかった。
 綾子はふと思った。確かに自分は、宗太郎に対し常に「自分を変えろ」と言ってきた。脳の機能に問題があるかもしれないのに、そんな無理とも思えることを言ってきたのだ。それならば責められてもしかたない。
 だが、だからこそ今後は宗太郎の支えとなりたいのだ。今まで追いつめるようなことを言い続けてきた自分を反省する意味でも。
 綾子はそう思った。

 その翌朝のことだった。
「宗太郎、ねえ、宗太郎! 教習に行かないって、どういうこと?」
 綾子は宗太郎の部屋のドアを、ひたすらたたき続ける。しかし宗太郎は出てこない。
「宗太郎、ちょっと、宗太郎ったら! ねえ、開けてよ。宗太郎ったら、ねえ!」
「ほっとけよ」
 背後からそう言ったのは、敬次郎だった。
「敬次郎……」
 綾子は振り向いた。敬次郎は腕を組み、脚をやや開いて立っていた。
「しょせん、兄ちゃんはあの程度のヤツだったんだよ。何言ったってむださ」
「そんなこと言うもんじゃないわよ。あの子はあの子なりに、悩みをかかえているんだから」
「おれだっていろいろと悩みがあるぜ。でも自分なりに何とか解決しようと考えているぞ。兄ちゃんは悩んでばかりで、何も自分から切り開こうとしないじゃんかよ。そのくせに、何かイヤなことがあったからって、教習までさぼるとはな。甘ったれてんだよ」
 敬次郎の言うことももっともだと、綾子は思った。しかし、今の宗太郎は自分では解決しきれない悩みをかかえているに違いない、とも思った。アスペルガー症候群の言葉は出さなかったものの、「普通の人とは違う」ということを聞き、よけいに自分ではどうすることもできないと感じているのではないか、とも。
「じゃ母さん、おれ学校行くよ。おれはサッカー部の練習、さぼるわけにいかないからな。レギュラー入りのために。行ってきます」
 敬次郎はそう言って階段をおり、家を出た。
 悩みがあるとは言ったが、それでも深くは考えずに、普通に学校に通う敬次郎。そんな敬次郎の後ろ姿を見て、宗太郎も同じだったらいいのに、と一瞬だが綾子は思った。

 それからの宗太郎は、もはや「生けるしかばね」の状態だった。
 教習もさぼってしまい、教習所には行かなくなってしまった。何をするにも気力は感じられず、ただ家に閉じこもるだけの生活。充実した生活を取り戻せると、一度は家族がいだいた期待は、もろくくずれた。
 宗太郎は生活の大部分を自分の部屋ですごすようになった。
 綾子は当然、宗太郎をこのままにしてはおけなかった。
 そして綾子は電話をかけるのだった。助けを求めるために。高原家の家族以外で、宗太郎のことをもっともかわいがってくれる人のところへ。
「もしもし、美琴ちゃん? 綾子です――」


posted by エビフライ飯 at 22:28| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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