2010年11月05日

4.美琴の気がかり

 ある昼下がり、美琴はとある喫茶店にいた。出てきたレモンティーをすすりながら、誰かが来るのを待っている様子だった。
 店の入り口ドアについている鈴が、カランコロンと鳴った。中年女性の客がひとり、入ってきた。
「あ、おばさん、こっち」
 客は綾子だった。美琴は綾子を見るなり、カップを受け皿に置き、右手を高く上げながら呼びかけた。
「用があるなら、家に来てもよかったのに」
 テーブルをはさんで美琴と向かい合わせにすわりながら、綾子は言った。
 綾子はこのところ、美琴をあまりよく思っていなかった。自分は気が進まない宗太郎のバイク免許取得を、美琴がそそのかしたものだと思っているからだった。今回この場所で会う際に、綾子はその件に関して、美琴に言ってやろうと思っていた。
 綾子に対し、美琴は声を小さめにしながら言った。
「あ、実は、おばさんの家じゃ話しにくいことなのよ。ソウちゃんがいるかもしれなくて……」
「宗太郎がいると、何かまずいの?」
「そのソウちゃんに関係すること」
 すると美琴は、頭を下げながらこう言った。
「おばさん、もしおばさんが、あたしが強引にソウちゃんを教習所に行かせるよう仕向けた、と思ったなら、ごめんなさい」
 綾子は驚きの表情を見せた。宗太郎のことをこっちが言おうと思っていたら、向こうから、しかもわびを入れるように言ってきたことで。
「美琴ちゃん……どうしたの?」
「あたしね、ちょっと責任感じてるの。安易にソウちゃんに免許取得をすすめちゃったかな、って」
 そして美琴は、綾子に近づくように頭を動かして言った。
「あのね、おばさん。これからあたしが言うことを、よーく聞いてほしいのよ。いい?」
「え、ええ」
 綾子はとまどった。いったい宗太郎に何が起こったのかと、とても気になりだした。
 美琴は静かに話を始めた。
「おばさんは『アスペルガー症候群』って、知ってる?」
「え、何なの、突然」
 綾子はいきなり聞いたことのない言葉を聞かされて、目を見開いた。
「生まれつきの、脳機能の発達障害の一種。あたしも最近になって知ったの。それでね、あたしこの間大学のゼミの一環で、発達障害を持つこどもたちの集まりのボランティアをやったの」
「うん、それで」
 綾子があいづちを打つと、店員がやってきて注文を聞いてきた。美琴はいったん話を中断した。
 綾子がカフェオレを注文し、店員が去ると、美琴は再び話を始めた。
「でね、その集まりにいた子たち。五歳くらいの園児から小学校の高学年までなんだけどね。その中に、そのアスペルガー症候群の子が何人かいたのよ。その子たちと接していて、気になることが出てきたの」
「気になること……?」
「うん、そのときにね――」
 美琴はそのときの集まりのことを思い出していた。

 ――こどもたちの中に、アスペルガー症候群と診断されている幼稚園年長の男の子がいた。その子が美琴のところにやってきて、いきなりこう言ってきた。
「ねーねー、つくばエクスプレスって、乗ったことある?」
 すると美琴が話しかけてもいないのに、その子は、
「秋葉原から茨城のつくばまで走るんだよ。駅の数は二十で、車両はTX‐一〇〇〇系とTX‐二〇〇〇系があるんだ」
 と言ってきたのだった――

 そのときの内容を、美琴は話した。綾子は感心したように、こう言った。
「まあ、その子幼稚園児にしては、たいしたことを知ってるのね」
「あたしも初めはそう感じたわ。でもその子の話を聞いてたら、電車やその路線のことばかり話すのよ。それしか興味がないみたいで。で、その子を見て、はっと気づいたわ。これは、小さいころのソウちゃんに似ているな、って」
「え? 宗太郎に?」
「ソウちゃんがその子と同じくらいの歳のとき、バイクの話ばかりしていたでしょ。図鑑を持ってきて、バイクの各部の名前をスラスラ言ったり、バイクの車種の名前を連呼したり。話しぶりがそっくりだった。だから似ているな、と思ったの」
「確かに昔の宗太郎は、そんなところがあったわね」
「それで、もしかしたらソウちゃんもアスペルガーがあるんじゃ……と思ってね。いや、もちろんまだ断定はできないけど……なんとなくそんな気がしてきてね」
「でも、そんなこどもは多くいるでしょ。図鑑で得た知識を、周りの人に言いたい思いがあったんじゃない?」
「問題はね、その知識を得る興味の対象が、あまりにせまいってこと。教授の話だと、その『興味の範囲のせまさ』が、アスペルガー症候群の特徴のひとつなんだって」
 美琴がそこまで話したところで、店員がカフェオレを持ってきた。綾子はさっそくそれをひとすすりし、カップをテーブルに置いた。
 そしてひと呼吸置き、今度は綾子のほうから話をした。
「そうだとしても、えっと、アス……何だったかしら」
「『アスペルガー症候群』よ。長いから『アスペ』と略すこともあるけど」
「じゃ、そう呼ばせていただくわ。で……そうだとしても、それだけで宗太郎をアスペだと決めつけるのは、短絡的じゃないの」
「それはわかっているわ。あたし、気にはなったけど、単純に決めつけるのはよくないって思ったから、後日自分でインターネット使って、アスペについて調べてみたのよ。そしたらね……ソウちゃんに当てはまっていることが、けっこうあったのよ」
「ええっ、どんなことが?」
「まずね、特徴のひとつに『場の空気が読めない』っていうのがあるの。それで、この間ソウちゃんをあたしのバイクで連れて行ったときも、それを感じたの」
「どんなことがあったの」
「あのとき、おばさんの家を出るとき、後ろにすわったソウちゃんにあたしが『つかまって』って言って、ソウちゃん、あたしの胸をつかんだでしょ」
 美琴はそう言いながら、両手で自分の胸をつかむかっこうをした。
「そうそう、美琴ちゃん、叫んでたわね。どこをさわってるの、って」
「うん。小さい子ならともかく、ソウちゃんぐらいの歳の子だったら、女の胸をみだりにさわるもんじゃないってことぐらい、言われなくてもわかるもんだよね」
「まあ、普通はそうよね」
「それと、こっちの心情を無視して、人を不愉快な気分にさせて、反感を買うような言葉を口にするところがあるみたいなんだけど……」
「まあ」
「おばさん、心当たりない?」
「ああ、言われてみれば、そう思える言葉を何度か聞いたわね。うちに来たお客さんにいきなり『しわが多いね。歳いくつ?』と聞いたり、おじいさんやおばあさんに『ふたりはいつ死ぬの』なんて言ったり、太った女性のお客さんに向かって『丸ごとのハムみたい。体重は?』と言ったり。そのときの宗太郎はもう小学校の高学年だったのに、そんな小さい子が言うようなことを言って、ずいぶん心が幼い子ねえ、と思ったわねえ」
「やっぱりそうなんだ。まあ、本人に悪気はないのかもしれないけど……やっぱり『空気が読めていない』のかもね」
 いったん、美琴と綾子はそれぞれ注文した飲み物を口に入れ、のどをうるおした。少しの休憩のあと、美琴はまた話に入った。
「でね、これは相手との適度な距離を置くことや、その場に似合った行動や言動をおこなうことが、アスペの人には難しいからなんだって」
「ふーん……」
 綾子はため息まじりの声を出した。
「それとね、ソウちゃんって、記憶力がすごくあるよね」
「そうなの。中学のころは、たいして勉強もしてないのに、成績は常に上位だったわ」
「実はね、これもアスペの人に多くみられる特徴なんだって」
「まあ、これも?」
「そうなの。記憶力がすぐれてて、周りの人が見たら、頭のいい子と思われることが多いって」
「あら、それならいいことじゃないの」
 しかし美琴は顔をくもらせた。
「そうとばかりは言えないのよ。記憶力があるってことは、思い出したくもないイヤな思い出まで、そのまま記憶として残るってこと。そしてそれを忘れることが難しいってことなのよ」
「あ、それは困るわよね」
「そう。あたしたちだったら、何かいやなことがあって、そのときは『傷ついた』って思っても、次第に忘れていって『ああ、あんなことがあったな』って思えるようになるじゃない。アスペの人の場合、それがいつまでも忘れられないんだって」
「イヤな思い出を引きずってしまう、ということね」
「そう。それでいちばん心配なことが『イジメ』。アスペの人って、その空気の読めなさのせいか、人との関わりもうまく構築できなくて、周囲から『何か奇妙に見える、おかしな人』に見られて、イジメの標的になりやすいの」
「あ、じゃあ、もし宗太郎がアスペだとしたら、ただでさえ思い出がいつまでも残ってしまうのに……」
「学校でイジメにあったことが、忘れられずに頭の中にとどまっている、ってことになるわね。それじゃつらいだろうね」
 美琴の言葉を聞いて、綾子は心配になった。仮に自分の長男がアスペルガー症候群だとすると、イジメでひどく心を傷つけられ、その傷がいえないまま、ということになる。そんな状況に宗太郎が置かれているのならば、このままにしてはおけない、と思った。
 その間に、美琴は質問をしてきた。
「で、ちょっと聞くけど、ソウちゃんって、ささいなことでひどく傷ついたり、ショックを受けたりするところ、ない?」
「あるある! おおいにあるわ」
 美琴の質問に綾子は、ビンゴゲームで言えばビンゴになったような思いにかられ、その思いが声になって出た。続けて綾子は言った。
「宗太郎、わたしがちょっと何か注意しただけで、すぐに怒って気を悪くして、落ちこむのよ」
「そうなんだ」
「で、それが何か?」
「あのね、人から言われたことを、そのまま丸ごと受け止めるところがあるってところも、アスペの人に見られる特徴なの」
「まあ、これも?」
「うん。普通なら、人からきついことを言われても、すぐに受け流して気持ちを切り替えられるでしょ。それがアスペの人は、言われたことをそのまま受け止めてしまって、受け流すことが難しいんだって」
「宗太郎は確かに、そんなふうに見えるわね。冗談半分に敬次郎から何か言われても、カッとなってケンカになりそうになるし」
「その『冗談』がわからないのよ。言葉のウラが読めないところ、それがアスペの特徴なの」
 さらに美琴はたずねた。
「それと、ソウちゃん、体育の成績はどうかな?」
「いつも『2』か『1』だったわ」
「あー、そうなのね。アスペには運動能力の低さもよく見られるのよ」
 ここまで会話をしたところで、綾子は楽観できなくなっていた。美琴の話を聞くにつれて、宗太郎がアスペルガー症候群ではないかと、強く思えてきた。
「そうなると、宗太郎もアスペのような気がしてきたわね……脳の障害と聞くと、ちょっと心配ね」
「綾子おばさん、やっぱり専門の機関に、一度相談をしたほうがいいと思う」
「専門の機関?」
「そう。やっぱり今の段階では『かもしれない』としか言えないから、専門家をあたって、そこで検査をしてもらったほうがいいよ。あたし、教授からそこの場所を聞いてるの。はい、これ」
 美琴は綾子に、専門の機関の名前と場所が書かれた紙を渡した。そのあと、美琴はこう言ってきた。
「あたしが責任を感じてるって言ったのは、ソウちゃんがアスペかもしれないと知らずに、免許取得をすすめたことでなの。さっきも話したけど、ソウちゃんって他人の言葉をそのまま受け止めて、受け流しができなさそうだから、教官の言葉で傷ついてしまわないかな、と気になるの。教習所の教官の言葉って、かなりきついから」
「あ、そうかもしれない……」
「それと、ソウちゃんの運動能力。バイクは右手・左手・右足・左足、それぞれが違う動きをしなきゃならないから、これができるかどうか……ソウちゃんに無理をさせることになると思うと……」
 綾子は、美琴が自分のおこないをかえりみて、かつ宗太郎のことを気にかけていることを、そのときの様子で認識できた。そのため、もう深くは探るまいと思い、次の言葉をかけた。
「美琴ちゃん、あまり背負いこまないで。あなたが宗太郎のことを思ってくれていることは、伝わったから」
「おばさん……」
「それと、アスペのことを知らせてくれて、ありがとう。あの子のこと、以前から『普通とは違う』と気になっていたの。さっそく教えてくれたところ、あたってみるわね」
 そのときの綾子は、母親として、どうにかして宗太郎を守ってやりたい思いでいっぱいになっていた。


posted by エビフライ飯 at 22:30| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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