2010年11月05日

3.教習開始

 土曜日の午前九時をまわったところだった。
 宗太郎は『丸木が原(まるきがはら)自動車教習所』の第一教室の一角にすわっていた。これから新しく入った教習生を対象とした、入所ガイダンスがおこなわれるのだ。
 ここまでこぎつけるのに、いろいろと宗太郎が自分でやらなければならないことがあった。
 まずは住民票の取り寄せ。宗太郎は初めてひとりで市役所まで行った。それは宗太郎にとっては、ひさびさにひとりで外に出たことでもあった。
 どの窓口へ行けばいいかは、すぐにわかった。『戸籍謄本・抄本/住民票』と書かれた板が、天井からつるされていた。そこに行くと窓口の人が「住民票ですか?」とたずねてきた。そこで宗太郎がうなずくと、一枚の紙を差し出された。そこに書かれているとおりに書いていき、持ってきた印鑑を押して、紙と手数料を窓口に出すと、住民票が来た。
 当初は市役所でうまくできるかどうか不安だった宗太郎だが、思いのほかあっさりとできてしまったことで、少し自信がついた。同時に市役所という場所が身近に感じ、これからは何の不安もなく行けるようになると思うのだった。
 そしてそのあと、宗太郎は丸木が原自動車教習所へ行った。宗太郎はこのときも不安に包まれていた。だが教習所に着いてから、受付で入所手続きをすませると、その不安は消えた。入所手続きもまた、うまくできるか気にかけていたが、わりあいあっさりとできたからだった。
 そして現在、宗太郎は教習生となって、教室内でガイダンスが始まるのを待っている。しかし今このときも、宗太郎の心には不安な気持ちが支配しつつあった。
 さきの市役所や、最初に教習所に行ったときでもそうだったが、宗太郎は初めての場所に行くことや、経験のないことをやるのを、とても不安に感じる。何が待ち受けているかわからないと、先のことがとても気になるからである。宗太郎はその度合いが、他の人と比べて明らかに強いのだ。
 ただ、一度経験してしまえば、それで安心できる。現に市役所でも入所手続きでもそうだった。とはいっても、初めての経験にさしかかるたびに不安がおそってくるので、宗太郎は心が疲れてしまうのだ。

 そして入所ガイダンスは始まった。
 教室内には宗太郎と同じく、これから初めて教習を受ける人たちが、ざっと数えて二十名あまり、すわっていた。そのうちのほとんどは四輪の普通免許を目指す人で、二輪免許の教習を受ける人は、宗太郎を含めて三人しかいない。二輪の教習生が、四輪のそれとは少し離れた場所にすわらされていることで、それはわかった。
「えー、みなさん、おはようございます」
 教習所の職員が教室前方から、教習生たちに向かって言った。教習生の中の数人が、あいさつを返した。
 その後職員は、教習に当たっての心構えや注意についての話をおこなった。それが終わると、教習生たちに紙が二枚ずつ配られた。
 それは問題用紙と、答えを記入するマークシートだった。まるで試験をするようだった。
「これは、教習を受けるにあたっての、ちょっとしたテストです。気負わずにやってみてください」
 職員はそう言った。
 そのテストは、何やら奇妙に思えるものだった。質問が次々とあり、それらに「はい」か「いいえ」で答える問題。四角のワクの中にひたすら「H」を書き続ける問題。簡単な計算問題。同じ図形を見つけ出す問題。こういった問題が続いた。
 テストが終わると、二輪は二輪で、四輪は四輪でそれぞれ別々に、今度は教習の受け方についての説明がおこなわれた。技能教習の際には、教習開始までに二輪待合室に来ること、必ず長そで長ズボンで手袋と運動靴を着用することなど、担当の職員は教習を受ける手順や注意することを説明していった。
 そんな調子で入所ガイダンスは進んでいき、午前十一時十分前で終了した。

 入所ガイダンスが終わっても、新しく入った教習生は、まだ教室に残らなければならなかった。
 学科教習の最初の項目「運転者の心得」が、同じ教室でおこなわれるのだ。指導員が教室前方の教卓にて、学校の授業のように長い話を始めた。
 宗太郎は、このような長い話を聞くことが苦手である。話を聞いていても途中で内容をつかみとれなくなってしまうのだ。決して聞いていないのではない。聞いただけでは話の内容が理解しづらいのだ。
 そんな宗太郎なので、学校でも授業中に指名されても答えられないことが、しょっちゅうあった。それゆえに教師から「話を聞け」と注意を受けることも、しょっちゅうだった。
 五十分がたち、学科教習「運転者の心得」は終了した。教習を受けた証明のハンコが教習原簿と教習生手帳に押された。しかし宗太郎は長い話がずっと続いたことで、どのような内容だったか、あまり頭に入っていないようだった。
「これからあと二十五回も、学科教習を受けるのか……」
 宗太郎は教習原簿の、さっき押されたハンコと、そのあとのハンコを押す欄の空白二十五個を見ながら、ぽつりとつぶやいた。そしてひとつ、ため息をつくのだった。
 そして宗太郎は、その日は終了後すぐに教習所の送迎バスに乗り、家へと帰った。

 その日の夜、宗太郎は居間のソファに体を預けるようにすわっていた。午前中は教習所ですごしたが、それだけでも今の宗太郎には、かなりの気力が必要だった。入所ガイダンスから最初の学科教習までで、すっかり疲れてしまったのだ。
「宗太郎、初日からもう疲れたか」
 そばを通りがかった伸が、宗太郎を見て言った。宗太郎は軽くうなずいた。それを受けて、伸はさらにこう言ってきた。
「でも、今日は説明だけで、まだ実際にバイクには乗っていないんだろう。これからが本格的な教習だぞ。今から音(ね)をあげてどうする」
「そのバイクに、いつ乗れるかわからない」
 体を後ろにそらしたままで、宗太郎は答えた。
「わからない? おまえ、今日教習所で教習の予約を取らなかったのか」
「へ? 予約?」
 宗太郎は体を起こした。
「そうだ。教習所というのはな、車やバイクに実際に乗る技能教習の場合、予約を取っておかないと受けられないんだぞ。そのぶんだと、予約を取らずに帰ったんだな」
 宗太郎はあせりの表情を見せた。
「そ、そんなのわかんなかったよ」
「教習の受け方についての説明は、絶対にするはずだぞ。聞いてなかったか?」
「そういえば……何かそんなことを言ってたような……」
「まあ、聞いてなかったにしても、説明が書かれた紙を渡されていないか?」
「ああ、それらしいのがあった」
「だったらそれを見ておけ。それで、明日は教習所で予約を取るんだぞ」
「それだけのために行くのか?」
「何を言っている。空いた時間で学科の教習を受ければいいだろうが。学科と技能、決まった時間数を全部受けないと卒業できないんだぞ。だったら学科だけでも早いうちに受けたほうが、いいに決まっているだろう」
「あ、そうか」
 宗太郎はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、自分の部屋に向かってのっそりと動いた。そんな宗太郎の背中を見ながら、伸はこう思うのだった。
《まったく……要領の悪いやつだ。この先が思いやられるな……》

 部屋にもどった宗太郎は、今日教習所でもらった書類を取り出した。そこには確かに、教習の受け方についての説明が書かれた紙が二枚あった。
 技能教習は配車予約窓口で予約をとること、学科教習は自分の都合に合わせて自由に受けること、それらが書かれていた。
「そして……なになに、効果測定に卒業検定……いろいろやることがあるんだな」
 宗太郎は今日の入所ガイダンスのことを思い返した。確かにこうした説明が、指導員の口からもされていたな、と気づいた。あのときは、聞いただけではよく理解ができなかったが、今こうして文章に書かれた説明を読むと、わかるのである。
 次に宗太郎は、もう一枚の紙を見た。それは二輪教習生に対する教習の流れを説明するものであった。
「技能教習は、うわっ、長そでに長ズボン、手袋も着けるのか」
 暦の上では秋になったとはいえ、今は九月の中旬。まだまだ暑さが残る季節である。そんなときに教習でさらに暑い思いをすることになるのかと、宗太郎はまた先のことが気になって、不安になるのだった。

 翌日、教習所で技能教習の予約を入れた宗太郎は、そのまま学科教習を受けに行った。
 今回受けたのは「交通標識に従うこと」だった。教本には、数々の道路標識が掲載されていて、それぞれに簡単な説明がつけられていた。
 それを目にした宗太郎は、思わずニヤリとした。というのは、幼少のころの宗太郎は、この道路標識が大好きだったからだ。
 外に出ると、あちこちで目にする道路標識。宗太郎はそれらを目にすると、即座にそれを頭に焼きつけていた。道路標識は独特のデザインである印象を受けていたので、どの標識でもはっきりと、それに描かれている絵や記号を記憶できたのだ。
 頭の中にすんなりと入っていくから、おもしろく感じる。そんなことから、宗太郎は道路標識のとりことなっていた。そんな幼少時代だった。
 さらに、その標識の意味も次々と覚えていった。父親が免許の更新のたびに持って帰る『交通の教則』という小冊子に、その意味はすべて掲載されていた。宗太郎はそれを見て、誰に言われるでもなく教わるでもなく、実質丸暗記で意味を覚えていったのだ。
 さらにそうしているうちに、次のような分類ができることに気がついた。

 ・「赤色組」
  枠が赤色で、内側に斜めの赤色の線の標識。ダメ、通るな、の意味。
  (通行止め、車両通行止め、駐車禁止など)

 ・「青色組」
  青地に白の絵文字の標識。ここを通りなさい、ここにこういったものがありますよ、の意味。
  (指定方向外通行禁止、自動車専用、横断歩道など)

 ・「黄色組」
  黄色地に四角の標識。そこに描かれていることについて、注意しないといけませんよ、の意味。
  (踏切あり、落石のおそれあり、道路工事中など)

 またこれらとは別に「徐行」「一時停止」は他と違って逆三角形だったので、このふたつは特にはっきりと記憶することができた。
 幼少のころ、そんな具合で覚えていった標識が、今開いている教本に描かれている。そのすべてを、宗太郎は今もなお頭に焼きつけている。教習を聞きながら、これは自分にとっては、今更覚える必要もないことだな、そんなことを思う宗太郎だった。

 そして後日、宗太郎が技能教習を受けるときが来た。入所ガイダンスの日から四日がたったときのことだった。
 宗太郎はこの日の夕方ごろに、一時限の技能教習の予約を入れた。いよいよ実際にバイクに乗ることになるのだ。
 長そでのシャツにGパン、足にはスニーカーをはき、手には軍手をはめ、頭には先日美琴に買ってもらったフルフェイス・ヘルメットをかぶった宗太郎の姿が、二輪練習コースのバイク置き場にあった。さらに、二輪教習生であることを示すゼッケンをシャツの上からつけ、両ひじと両ひざにはそれぞれを守るためのプロテクターを装着していた。
「それでは始めましょう」
 男性の指導員が宗太郎に向かって言った。指導員の胸には「垣内(かきうち)」と書かれた名札がついていた。
 今日の教習は垣内と宗太郎、一対一での形である。初めてということで、垣内がつきっきりで指導にあたるのだ。
「さて、まずはバイクのスイッチ類の説明をしていこう」
 垣内は自分が乗るバイクを置いているところに宗太郎を来させ、説明を始めた。前照灯の高さ切り替え、方向指示器(ウインカー)、警笛、エンジン非常停止、エンジン始動、これらのスイッチについて、垣内は指で場所を示しながら説明をしていった。
「そして、手元のレバーだけど、これは左がクラッチで、右が前輪のブレーキだ。わかるかな?」
 垣内はハンドルにある左右両方のレバーを、それぞれ握ってはもどす動作をくり返しながら説明した。それを見た宗太郎は、こう答えた。
「それぐらい、わかってます」
 宗太郎は小さいころから図鑑を見てきて、手元のレバーは左がクラッチ、右が前輪のブレーキであることを、すでに知っていた。それゆえ今さら説明されなくてもわかる、という思いから出た言葉だった。
 しかしそれを聞いた垣内は、まゆ毛の間にしわを寄せ、むっとした表情に変わった。
「それでも聞いてなさい。よけいなことは言わないように」
 垣内の口調が、さっきよりも明らかに強いものになっていた。
 一方の宗太郎は、こっちは「わかるか?」と聞かれたから、自分の答えを言っただけなのに、どうして怒られなければならないのか、と心の中で不満をもらしていた。
 垣内は説明をひととおり終えると、今度はバイクを横に静かに倒して、地面に横倒しの状態にした。
「では、今度は引き起こし。倒れたバイクを起こしてみます」
 垣内はそう言って、まずみずから手本を見せた。見事なまでに、すばやくバイクを起こして元の状態にもどした。
「このように、倒れたバイクを起こすのが、引き起こし。これができないと、バイクに乗れません」
 垣内は再びバイクを横倒しにした。
「では、やってごらん」
 宗太郎は言われたとおりに、バイクのハンドルに手をかけて、引き起こしに挑戦した。しかし、バイクはちっとも上がらない。あまりの重さに、宗太郎の腕には痛みが走った。
「腕だけで上がるわけがないぞ。重さが二百キロ近くあるんだから。それに、そんな腰を高くした姿勢じゃ、腰を痛めてしまうぞ」
 垣内からそんなことを言われても、宗太郎はどうしていいかわからなかった。
「腰を低くして、その腰をタンクに当てるんだ。そこに体重をかけて起こせ」
 宗太郎は垣内の言葉どおりにした。さっきとは違って、バイクが少し上がった。とはいっても、腕と腰に相当な力をかけていなければ、バイクは今にも倒れてきそうだった。
「力がないな」
 垣内の言葉が針のようにささる。それでも、宗太郎はなんとかバイクを起こすことができた。
 すると、垣内が宗太郎のそばまで来て言った。
「おれが手本を見せたのに、きみは見てなかったようだな。よけいなこと言う前に、まずこっちがやることを見ておけよ」
 そう言われて気分を害した宗太郎だったが、引き起こしに集中しきっていたために、ただうなずくことしかできなかった。
「では、さっきは車体の左側からの引き起こしだったから、今度は反対の右側からやってみよう」
 垣内はそう言って、今度はさっきとは反対側にバイクを倒した。そして宗太郎は、さっきと同じように引き起こしに挑戦した。
 昼の暑さがまだ残る中、肌のほとんどを覆った服装でいる宗太郎の体から、汗がふき出ていた。特にプロテクターをつけているひじとひざの周りと、手袋の下の手のひらは、多めの汗を感じた。
 二回目も、宗太郎はなんとかバイクを起こせた。しかしこれだけで、宗太郎は全身に汗をかいてしまった。
「まあ、引き起こしはいいとしよう。じゃ、今度は取り回しをしてみるぞ」
 垣内はそう言うと、宗太郎を教習バイクにもどらせた。
「バイクを押して歩いて、おれのあとについて来て」
 宗太郎はバイクのサイドスタンドをもどすと、ハンドルを両手で握り、そのまま垣内のあとについて歩き始めた。
 しかし、車体が安定しない。前に動かすと、横にもかたむく。重さ二百キロ近くの、ぐらつく車体を両手二本で支えているだけで、精いっぱいの状態だった。
 宗太郎が右方向に曲がって進もうとした、そのときだった。バイクが右側に大きな音を立てて倒れた。曲がる際に、車体が大きく右側にかたむき、支えきれなくなって手を離してしまったのだ。
「起こせ」
 前を歩いていた垣内が、すぐさま後ろを向いて言った。しかし宗太郎は、今いる位置からハンドルを握り、腕だけでバイクの引き起こしをしようとした。
 それを見た垣内は、宗太郎のところまで来て言った。
「何をやっている。さっき右側に倒れた場合の引き起こしをやったじゃないか。もう忘れたのか」
「え、と……」
 宗太郎はバイクが倒れたこと、もうそれだけで頭の中が混乱していた。さっきやったことさえも、吹き飛んでしまっていた。
 業を煮やした垣内は、そんな宗太郎をどなりつけた。
「車体の右側に回れ。そしてサイドスタンドを出しておいてから、タンクに腰をつけろ。さっきやったことぐらい、覚えておけ」
 セ氏三十度近くの気温の中、長そで長ズボン、手袋に身を包む宗太郎の体は、体温が上昇し汗にぬれていた。そんな状況で宗太郎は、動くことも苦痛に感じ始めた。加えて垣内のどなり声も、苦痛を強めるものとなった。
 それでもなんとか引き起こしをした宗太郎だったが、初めからこんなに苦しく感じてしまって、この先どうなるのだろうかと思った。
 宗太郎の心は、常に「先の不安」がある状態であった。


posted by エビフライ飯 at 22:32| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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