2010年11月05日

2.挑戦

「ねえ宗太郎、美琴ちゃんから聞いたけど」
 綾子は宗太郎に向かって言った。
 宗太郎が美琴に港まで連れて行ってもらってから、家にもどって夜七時ごろ。夕食の時間だった。
 食卓にいるのは宗太郎と母・綾子、そして中学二年の弟・敬次郎(けいじろう)である。父親は仕事からの帰りが遅く、今ここにはいない。
「バイクの免許、取るつもりなの?」
「うん」
 綾子の質問に対し、宗太郎はうなずいた。しかし、それに対する綾子の答えは、こうだった。
「お母さんは反対だからね」
 それを聞いた宗太郎は、険しい表情を浮かべながら言葉を返した。
「何でだよ」
「だって考えてみなさいよ。あなた、自分の運動能力がどのくらいなのか、わかってる? 通知表の評価はいつも『2』か『1』だったじゃないの。そんなあなたが、バイクの運転ができるようになるなんて、とても思えないのよ」
「ああ、言ったな! ちきしょう!」
 宗太郎は突如怒りをあらわにし、食卓を左手のこぶしでドンとたたいた。「運動能力のなさ」という、宗太郎が常に気にしていることを言われ、気にさわったからだった。
「もう、またそうやってすぐ怒る……ちょっと言われただけで……」
 綾子はうんざりした表情を浮かべた。
「無理無理。兄ちゃんにバイクの運転なんてさ」
 横でふたりのやりとりを見ていた敬次郎が、口を開いた。
「根性なしだもんな。途中でくじけるに決まってるよ。兄ちゃん、中学のときに入った部活だって、すぐにやめちまったしな」
「うるせえな、この!」
 宗太郎はまた怒って、敬次郎の胸ぐらをつかんだ。
「何だよ、本当のことじゃんか」
「だまれ! このやろう」
「やめなさい! ふたりとも」
 もんちゃくしている宗太郎と敬次郎を、綾子がいさめた。それに反応し、ふたりは体を元の位置である食卓の方向へもどした。
 綾子はさらに宗太郎に言った。
「それに、あんな危なそうな乗り物に乗るなんて、お母さん、想像しただけで恐ろしいわ。だから賛成できないの」
「ふん、そうかよ」
 不満をあらわにしながら、宗太郎はふてくされた。

 この日の昼間、宗太郎は美琴のバイクに乗せてもらって、今まで入ったことのない「風の世界」に入った気分になった。その後、美琴から「免許を取って、自分で運転してみないか」と言われた。
 宗太郎はその気になった。あのとき感じた風の世界へ、また入っていきたい思いが大きくなっていた。「免許、挑戦してみる」宗太郎は美琴にそう告げたのだった。
 その話は宗太郎が帰宅してから、美琴によって綾子に伝わった。美琴は「ソウちゃんに目標を持たせるいい機会だと思う」「生きるための力になるかもしれない」と言って、綾子に宗太郎の免許挑戦をすすめた。
 だが、綾子は賛成することができなかった。その理由は、夕食時に綾子が言った言葉のとおりである。

 夕食後、宗太郎は自分の部屋の中で、ふて寝をしていた。
「くそお、どいつもこいつも、おれをバカにしやがって」
 宗太郎には、さっき綾子や敬次郎から言われたことが、とてつもなく自分をバカにしているように感じられた。はたから聞けば、どうということのない言葉でも、宗太郎はするどく反応する。そのため、さっきのように宗太郎が感情的になると、綾子は「大げさね」といつも思うのである。
 さらに宗太郎は今のような心境になると、決まって思い出してしまうことがある。思い出したくないにもかかわらず。
 宗太郎が小学校二年のときだった。体育の時間、あるクラスメイトから「おまえの帽子、貸してくれよ」と言われ、宗太郎はすなおに自分の帽子を貸した。しばらくして、その子は「ほら、返すぜ」と言いながら、宗太郎の頭に帽子をかぶせた。しかし、帽子には砂場の砂が大量に入れられていた。結果、宗太郎の髪の毛は砂まみれになってしまった。そのうえ、こっちが意地悪をされたにもかかわらず、当時の担任教師は宗太郎を「何をふざけているの」と、逆にしかりつけた。宗太郎にとっては、これが今なお、みじめな思い出として頭から離れずにいる。
 こんなこともあった。中学校一年のとき、クラスの一部生徒から、いきなりぬれたゾウキンを投げつけられた。その連中が口にする言葉といったら、決まって「おまえ、むかつくんだよ」だった。他に理由はなかった。ただ宗太郎が気に入らない、それだけの理由で宗太郎をからかい続けた。これもまた、宗太郎の中の忘れられない思い出となっている。
「バカにすんじゃねえぞ、この」
 寝転がったままで、宗太郎はつぶやいた。
 宗太郎にとって学校生活というものは、ただ苦痛の連続でしかなかった。宗太郎自身は何も嫌われるようなことはしていないのに、周囲の人間は決まっておかしな目で彼を見て、避けようとするか、からかってくる。小学校から中学校まで、それは続いた。いつも誰かから攻撃を受け、みじめな思いばかりの、いまわしい思い出しか残らなかった。
 今年高校に入ってからも、それは同じことだった。それまでのいまわしい思い出が常につきまとい、学校では不安な気持ちにしかならなかった。そんな状況で、学校生活がうまくいくはずはなかった。結果、宗太郎はみずから学校へ行くことをやめた。
 忘れようと思っても、どうしても忘れられない。いまわしい思い出の数々。もどかしい気持ちにおちいった宗太郎は、しばらくそこから動く気力も起きなかった。

「宗太郎ったら、いきなりバイクの免許を取るだなんて言って……」
 さっきの夕食どきから一時間ほどたった食卓で、綾子は帰宅してきた夫・伸(しん)に、宗太郎のバイク免許取得の件について話をしていた。
「おそらく美琴ちゃんに吹きこまれたのよ。宗太郎は十六歳になったんだから、バイクの免許が取れるよ、だから挑戦してみたら、なんて具合に」
「それが、よくないことか?」
 伸は遅い夕食をとりながら、たずねた。
「だって、危ないじゃないの。あんなに大きくて重そうなもの、宗太郎にあつかえると思う?」
「そうやって決めつける前に、一度挑戦させたほうがいいと思うぞ、わしは」
「お父さん……!」
 伸の言葉を聞いた綾子は、驚きの顔つきになった。そして強い口調で言った。
「お父さんは、いつもそうやって甘いことを言って……」
「そうじゃない」
 伸は綾子の話をさえぎるように声を出し、続けて話を始めた。
「わしは、宗太郎がバイクに乗れるかよりも、このまま引きこもってしまいはしないか、そのほうがよっぽど心配だ」
「わたしだってそれは心配だけど、でも……」
「教習所に通うということは、少なくとも外の世界に出ていくということじゃないか。その点ではいいと思うぞ。そのためなら、わしは教習の金を出してもいい」
 伸はたんたんと話すが、綾子はまだ納得がいかない様子だった。
「お父さん、本気で宗太郎に免許を取らせるつもりなの?」
「とにかく挑戦させてみるんだ。させてもみずにただ『反対だ』と言ったって、宗太郎が納得するはずがないだろう。あの子にしては珍しく、自分から何かに挑戦しようとしているんだぞ」
 綾子はだまりこんだ。そんな綾子をさとすように、伸は言った。
「なあ、ここは本人の意思を尊重して、バイクの免許に挑戦させてやろう。これで宗太郎が意欲を持って、前向きに生きられるようになるかもしれないじゃないか」
「そういえば、美琴ちゃんは免許挑戦を『目標を持たせるいい機会』『生きるための力になるかも』って言って、すすめてたわね。そのときは、よさそうなことばかり言って、あおっているように思ったけど」
「あの子は教育大学の学生だ。少なくとも、児童心理については勉強しているだろう。その美琴ちゃんの言葉だ。これも尊重していいと思うぞ」
 綾子はまただまりこんだ。その様子を見た伸は、ひと呼吸おいて話をした。
「宗太郎が教習を受けて、それで免許が取れたなら、いいに越したことはないが、もし取れそうにないという状況になっても、一度やってみた上でということで、本人もあきらめがつくんじゃないか。だから、まずはやらせてみようや。それでどこまでできるか、見届けようじゃないか」
「うん、まだ気が進まないけど……挑戦させるだけ、させてみましょうか」
 綾子はしぶしぶ同意した。

 宗太郎が部屋の中でふてくされながら寝転んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
「宗太郎、父さんだ」
 ドアが開くと、伸の姿が見えた。しかし宗太郎は、伸に背中を向けて寝転んだままだった。後ろ姿の宗太郎に、伸は話を始めた。
「おまえが普通二輪の免許を取るという話、母さんから聞いたよ」
「ふーん」
 宗太郎がよく口にする、気のない返事だった。
「その件についてだが、教習費なら出すぞ」
 バイクの免許取得に挑戦してもよいという、伸の意思表示だった。しかし、宗太郎にはそれが伝わっておらず、何の反応も示さなかった。
 そこで伸は、あらためて言った。
「宗太郎、うれしくないのか。教習所に通って、免許を取るのに挑戦してもいいんだぞ」
「え、そうなのか」
 宗太郎はすぐさま体をねじって、伸のほうを向いた。
「そうだ。金はわしが出す。そのかわり、教習所への入所手続きは自分でやりなさい」
「何でさ」
「おまえ自身のことだからだ。おまえももう十六になったんだから、親にまかせっきりにばかりしないで、手続きぐらい自分でできるようにならなきゃダメだ。それと入所の際は、確か住民票が必要だったな。これも市役所へ行って、自分で取り寄せるんだな」
「でも、どうすればいいか、わかんないよ」
「とにかく市役所や教習所に行ってみなさい。行けば手順がだいたいわかるはずだから。わからなかったら、そこの人にたずねればいいから」
「うん、わかった……」
 宗太郎はそう言っても、心の中では不安が広がっていた。手続きなど自分でやったことがないのに、果たしてできるのだろうかと、教習を受ける前で不安な気持ちになった。
 そんな宗太郎をよそに、伸は宗太郎をはげます意味で、こう言った。
「宗太郎、本当にバイクの免許を取りたいのなら、必ず、最後までやりとげるんだぞ。教習所では精いっぱい、がんばりなさい」
「あ、ああ」
 しかし、宗太郎には伸の言葉が、重圧となってのしかかったように感じた。
 ちょうどそのとき、敬次郎が宗太郎の部屋の前を通りかかった。風呂あがりの敬次郎は、ぬれた髪をタオルでふきながら階段を上ると、兄の部屋の入り口付近で、父親が何かを話しているのを目にした。同時に話も耳に入った。
 そこで敬次郎は、父親が兄のバイク免許取得を許したのだなと気づいた。敬次郎は兄の部屋のほうを見ながら、自分の部屋に入っていった。
「兄ちゃん、本当にバイク免許に挑戦するのか……」
 敬次郎はベッドに腰を下ろしながら、つぶやいた。そしてこう思うのだった。
《ま、根性なしの兄ちゃんのことだから、どうせ途中でギブ・アップだろうよ。あの運動神経のニブさじゃな》
 すると敬次郎は、部屋のすみに置いてあるサッカーボールを手に取った。宗太郎とは異なり、敬次郎はスポーツが得意で、通っている中学校ではサッカー部に入っている。
《おれは、この秋からのレギュラー入りを目指して、いっぱい練習しているんだ。朝練にも出て、放課後もみっちりやって。おれは決してくじけないぞ。兄ちゃんとは違うぜ。練習しまくって、レギュラーに入るんだ》
 敬次郎はボールをもとのところに置くと、気合を入れる意味で両手のこぶしをぐっと握った。
《さあ、明日も朝練だ》


posted by エビフライ飯 at 22:34| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。