2010年11月05日

6.美琴の個人指導

 十月に入り、昼間もいくぶん涼しくなったある日の昼すぎ、ドドドド……という軽快なエンジン音をたてながら、一台のバイクが高原家の前に止まった。
 美琴が来たのだ。
 今回、美琴が高原家をおとずれたのは、他ならぬ綾子のたのみだった。
 美琴は入り口ドアの前に立つと、約二週間前、綾子がいかにも深刻そうな話しぶりで、自分に電話をかけてきたときのことを思い出した。

 それは夕方のときだった。美琴は大学構内にいて、その日の講義が終わり自室にもどろうと思っていたら、携帯電話の着信メロディが鳴った。
「はい、春川……あ、綾子おばさん」
 電話をかけてきたのは綾子だった。
「美琴ちゃん、実はお願いがあるの」
 いいことを伝えるために電話したのではないなと、美琴は綾子の話し方ですぐに気づいた。
「なーに?」
「宗太郎のことなんだけど……」
「ソウちゃんが、どうかした?」
 そこで美琴は、綾子から宗太郎が現在置かれている状況について聞いた。すると美琴も話しぶりが深刻そうになっていった。
「そっか……ソウちゃんが教習に行かないってことは、やっぱり教習所で何かあったんだろうね」
「わたしもそう思うの。くわしくはわからないけど」
「やっぱり、教官からきついことを言われたんじゃないかなあ。それが尾を引いちゃって、もう行きたくないと思うようになっちゃった、というのがいちばん考えられるわ」
「そうなのかしら……」
「この間の喫茶店でも話したけど、ソウちゃん、人から言われたことをそのまま受け止めちゃって、受け流すことが難しい子なんだよね。ああ、ソウちゃんがそういう子だって最初にわかっていれば、安易に免許取得なんてすすめなかったのに……」
「あまり自分を責めないで、美琴ちゃん。それはわたしだって見抜けなかったんだし」
「ありがと、おばさん」
 綾子の心づかいに、美琴は安心感を覚えた。
 それでも美琴は、どうにかして宗太郎を元気な姿にもどしてやらなければ、と思っていた。そもそもことの始まりは、自分が宗太郎に何気なく言ったひとことである。少なくとも自分自身も原因になっていると、美琴は自覚していた。
 それゆえ何らかの形で責任を取らなければ。美琴の心にはその思いが強まっていた。
「それでね、美琴ちゃん、今からじゃなくてもいいから、ひまができたら、うちに来てほしいの。宗太郎をどうにかして、はげましてやって」
 綾子のワラにもすがる思いが、ひしひしと伝わってくる言葉だった。それに対し、美琴はこう言葉を返した。
「それだけど、おばさん。しばらく時間をちょうだい」
「時間を?」
「あたしね、やっぱりソウちゃんに安易に免許を取ってみたらって言ったから、その責任があるわ。だからあたし、はげますだけじゃなく、どうすればソウちゃんを元気にできるか、考えてみる。思いついたらそっちに行くわ。だからそれまで、いつまでになるかわからないけど、時間がほしいの」
 それを聞いた綾子は美琴に対して、ありがたい気持ちでいっぱいになった。本来ならすぐに実行してもらいたいが、ここは美琴の思いをくみとって、本人の言うとおりにすることにした。
「わかったわ。ありがとうね、そこまで考えてくれて。それじゃ、ね」
 綾子は電話を切った。
 その翌日から、美琴は宗太郎を元気にする策をねる日々が続いた。大学の図書館で、発達障害に関する本を片っぱしから読んでいった。宗太郎がアスペルガー症候群だと仮定したうえで、解決策を見つけ出そうと考えたのだ。
《ソウちゃん、もう少し待っててね――》
 考える最中、美琴は心の中で何度もそう言ったのだった――

「美琴ちゃん」
 綾子が入り口ドアから出てきた。
「おばさん、待たせてごめん。できるだけすぐに来たかったんだけど」
 美琴は謙遜して、両手を合わせ軽く頭を下げながら言った。そんな美琴に対し、綾子は優しくこう言った。
「いいのよ。それで、何かいい方法は思いついたの?」
「うん。さっそく試してみる。そのためにソウちゃんを、またあたしのバイクに乗せて行くけれど、いいよね?」
「どこかに連れて行くの?」
「うん。そこであたしが考えた、ソウちゃんを元気にするための策を試してみるつもり。でも、うまくいくかどうかわからないの。だけど……だけど、ソウちゃんの可能性にかけてみるわ」
 すると綾子は心配顔になった。
「でもねえ……あの子が外に出てくれるかどうか……」
「ソウちゃんがバイクを嫌いになっていなけりゃ、あたしといっしょに乗ってくれるとは思うけど……ま、とにかくやってみようよ」
 美琴は意気ごんだ。

 綾子と美琴は、宗太郎の部屋のドアの前に立っていた。
「宗太郎」
「待って、おばさん」
 綾子が呼びかけたところで、美琴が手を出して止めた。
「ここは、あたしから呼びかけてみるわ」
 美琴はそう言って、ドアの向こう側へ、声を大きめにして呼びかけた。
「ソウちゃん! 美琴だよ。み・こ・と。あなたのいとこの、春川のミコちゃんだよ」
 部屋の中にいる宗太郎は、その美琴の声に反応した。そして宗太郎は、そろりとドアのほうへ近づいた。すると次にこういった言葉が聞こえた。
「ねえ、またあたしのバイクに乗って、いっしょにどこか行こうよ。今日はとってもいい天気だし、すずしいから、風が当たると気持ちいいよ」
 風――その言葉を聞いたとき、宗太郎の心に以前の記憶がよみがえってきた。
 初めて美琴のバイクに乗せてもらったときのことだった。あのとき、今まで経験したことのない感覚を味わった。走っているとき、常に風が周囲に吹き続ける。まるで「風の世界」にいるようだと、あのとき感じたのだ。
 美琴がバイクに乗って行こうと言っている。ということは、また風の世界を体験できる。それならば乗せてもらおうか。宗太郎はそう思い、ドアノブに手をかけた。
 ドアが少しだけ開いた。
「やっ、ソウちゃん」
 美琴はいつもと変わらないそぶりで、軽くあいさつをした。しかし宗太郎は何も言わず、ただうなずくだけだった。
「さっそく行く? あたしのバイクで」
 美琴はそう言って、バイクのカギを宗太郎に見せた。宗太郎はそれで確信したのか、小さく「ん」と声をもらしながら、うなずいた。
「よーし、じゃさっそく行こう。ヘルメットかぶってね」
 美琴は宗太郎を引き出すことに成功した。それを確信した美琴は、ちらりと綾子のほうを見て、右手でそっとXサインを出した。綾子もそれを見て成功だとわかると、笑みを浮かべた。

 美琴は宗太郎をバイクの後ろに乗せ、走っていった。
 宗太郎は以前と同じように、風の世界を感じ取った。吹き抜けていく風の中をバイクは進んでいく。基本的に運転速度が遅い教習では感じられなかった風が、今はしっかりと感じられる。
 これだ、まさにこれが風の世界だ。
 そうだ、自分はこの世界に入りたくて、二輪免許を目指したのではないか。こんなにも気持ちをすがすがしくさせてくれる、この風の世界に。
 ちょっとのできごとで、自分はそれをあきらめかけていた。しかし待て。このままで終わっていいのか。いや、よくない。
 宗太郎は走行中、そんなことを考え続けていた。

 やがてバイクは川の土手に着き、川原へと入っていった。美琴はそこでバイクを止めた。
「ここで川でも見ながら、ちょっと話をしようか」
 美琴は宗太郎に言った。
 ふたりは川べりにすわり、静かに流れていく川の水面を見ていた。そのまま美琴は宗太郎に話を切り出した。
「ソウちゃん、バイク、嫌いになった?」
「い、いや、そんなことはないよ」
「じゃ、教習に行かなくなったのは、やっぱり運転がうまくいかないから?」
「あ、うん……」
 宗太郎は苦虫をかみつぶしたような顔つきをした。
「あまり気にすることないと思うよ」
「適性テストがな……評価がよくなかったんだ」
「あ、それもあまり気にしなくていいよ。あくまで参考だからね。適性テストがよくないからって、運転ができないっていうわけじゃないんだから」
「それに、教官がイヤなヤツなんだよ。あまりに腹が立つから、おれ『あんたの教え方が悪いんだ』って言ってやったんだ」
「えー、ソウちゃん、そんなこと言ったの? そりゃまずいわよ」
 美琴は宗太郎の言葉を聞いて驚き、あきれた表情を見せた。
「何がまずいんだよ」
「だって、向こうは教える側よ。あなたより運転の技術も知識も格段に上の人よ。それなのに、そんなえらそうなこと言われたら、気を悪くするに決まってるわよ」
 美琴はそのとき同時に、次のように思ってもいた。
《はー、やっぱりこの子、場の空気が読めないんだわ……》
 そんな美琴の思いとは裏腹に、宗太郎はこう言ってきた。
「だって本当にムカついたんだぜ」
「あのね、ソウちゃん。思っていても口に出しちゃいけないことがあるの。相手の気を悪くしないようにすること、これが人間関係をよくするためには大事なのよ」
「わかんねえよ。そんなこと言われても。自分の思っていること言って、何が悪いんだ」
 やはり、人間関係をどうやってよく保つべきか、宗太郎にはその意識が欠けている。美琴はそう感じた。
 そしてひと呼吸置いて、美琴はいよいよ、自分の考えた策を実行しようと考えた。まずは宗太郎に質問を投げかけた。
「それで、バイクの運転に挑戦してみよう、って気は、まだある?」
 この日家にいたときまでの宗太郎は、バイクの運転さえもやる気を失っていた。しかし、先ほど風の世界の感触を味わったことで、その思いは薄らぎ、少しだけ再度挑戦してみようとの思いがわき上がっていた。
 それで宗太郎が出した答えは、こうだった。
「……少し、ある」
 それを聞いた美琴は、とっさにその場から立ち上がった。
「立って、ソウちゃん」
 美琴は宗太郎にも立つようにうながした。宗太郎は言われたままに立ち上がった。
 美琴はそばに置いてある、自分のバイクに宗太郎を導いた。美琴がカギをカギ穴に差しこみ、エンジンのスイッチを「LOCK」から「OFF」に切り替えると、そこで手を離した。
「ソウちゃん、あたしのバイク使っていいから、ここで練習してみなさい」
「え? え?」
 あまりにも唐突に美琴が言ったので、宗太郎はとまどった。
「教習車とは違うけど、同じ四〇〇cc。感覚は近いものがあるはず。ソウちゃんがまだバイクの運転をする気があるのなら、ここで練習してみてごらん」
 美琴の考えた策とは、これだった。宗太郎をうまく誘って、この川原で一度練習をさせて、再び免許を目指す気持ちをよみがえらせよう、という心づもりだったのだ。
「ここは川原で、公道じゃないから、ソウちゃんでも運転できるよ。さ、ヘルメットかぶって」
「うーん……」
 宗太郎は腰が引けていた。教習のときに、教官から厳しいことをいわれたことを思い出したからだった。
 それを察した美琴は、優しく宗太郎に言った。
「だいじょうぶだよ。うまくできなくたって、ここにはソウちゃんを怒る人はいないから。あたしが親切に指導をしてあげるよ。だからさ、ね」
 宗太郎は美琴の言葉を信じ、ヘルメットをかぶった。それを見て美琴はこう言った。
「よーし、じゃ、春川教官による、高原宗太郎くんへの個人指導、開始!」

 宗太郎はバイクにまたがり、エンジンをかけたままで停止した状態でいた。
「それじゃ、発進してみようか」
 美琴の声が聞こえ、宗太郎は発進しようとした。しかし、ガクン。エンストしてしまった。
「くそっ、いつも最初からうまくいかないんだ!」
 宗太郎は思わず叫んだ。
「あせっちゃダメ。最初からうまくできる人なんて、いないものよ」
 美琴は優しい口調でアドバイスを送った。
「発進のとき、アクセルを開く量が足りてないか、クラッチを急につないでるか、それが原因ね」
 美琴はそう言いながら、右手でアクセルを回すかっこうを、左手でレバーを握ってはもどす様子の動きをした。
 美琴は事前に、大学の図書館で発達障害児への指導方法について、自主的に勉強した。そこで「口で言うときは簡潔な言葉で、かつあいまいな表現を避け、ていねいに伝えるようにする」ことを知った。
 今の宗太郎はまだ、本当にアスペルガー症候群かどうかは、わからない。しかしそうでなくても、この指導法はいわゆる「普通」と呼ばれる子にも、わかりやすくて理解できるのではないか、と考えた。
 その考えのもとで、美琴はさらに宗太郎に指導をしていった。
「ここ、回転計を見てごらん」
 美琴はバイクのメーターふたつのうち、右側にあるエンジン回転計を直接指さした。
「この、目盛りの2と3の間ぐらい。そうね、真ん中の二五〇〇回転。少なくともここまで上げてみるべきね」
 回転計には0から13までの数字が目盛ってある。この数字を一〇〇〇倍した数が、一分間あたりのエンジン回転数を表す。今はエンジンをかけているが、バイクは動いていない、つまりアクセルは開いていないアイドリング状態で、回転計の針は1のあたりを指している。すなわち回転数は、一分間あたり一〇〇〇回転ほどということである。
「あいまいな表現を避け、ていねいに」とは、「ほどほど」「じわっと」「ちょっとだけ」というような、具体的にどれくらいの程度なのかはっきりしない表現より、明確な言い方をする、ということでもある。それを元にした、美琴の指導のやり方だった。
 実際、宗太郎はそう言われたことで、発進のときどのくらいアクセルを開けばよいか、理解できた。明確な数字を示してくれたことで、アクセル調節の不安はいくらか消えた。
 再び宗太郎は発進してみた。今度はエンストこそしなかったが、発進時ガクガクとゆれてしまい、スムーズとは言いがたい様子だった。
 そこで美琴は、今度はクラッチ調節について指導をおこなった。
「クラッチをつなぐときだけど、えーとね……」
 美琴は左手を握ったり開いたりの動作をくり返した。いつも自分がクラッチレバーを操作しているときの動きを、再現しているのだ。
 そのうえで出てきた美琴のアドバイスは、こうである。
「クラッチをいっぱいに握った状態から、一、二、三、四、五と数えて、その速さでもどすようにしてごらん。こんな感じで。見てて」
 美琴は自分の左手に注目させた。
「一、二、三、四、五」
 美琴は数を数えながら、握った手をゆっくりと開いた。一で開き始め、二、三、四の間にじわりと開いていき、五で指が伸びた状態にした。美琴はもう一度それをくり返して見せた。
「この『一、二、三、四、五』のペースで手を動かしていってごらん」
 宗太郎はそれを実際にやるべく、また発進の動作に入った。アクセルは回転計の2と3の間、クラッチをつなぐときは「一、二、三、四、五」、これを頭に入れ、やってみた。
 バイクはさっきとは違い、スムーズに走り出した。
「できた」
 宗太郎は思わず口にした。
「ソウちゃん、できるじゃない」
「うん」
 宗太郎は、さっきの美琴が教えてくれたやり方が、いちばんわかりやすいと感じた。今まで教習所では、アクセルを開くときの具体的な量や、クラッチをつなぐ速さがわからなかったのだ。
 特にクラッチは、教習所ではいつも「つなぐときは『じわっ』だ」としか言われなかった。宗太郎はここで「じわっ」の具体的な速さがわかり、少しばかり自信がつきだした。
 次に、美琴は発進と停止のくり返しを宗太郎に指示した。
「うん、いいよいいよ、うまい」
 宗太郎はわりあいスムーズに発進/停止をくり返すことができた。もう発進時にもたつく様子も見られなかった。
 そして美琴は、そんな宗太郎をとにかくほめた。アスペルガー症候群の子は、できたことをほめることで自信がつき、心の状態もよくなると、解説書に書かれていたためである。
 それから美琴は、走ってギアを変えることの指導に入った。
「ギアを変えたあとも、クラッチをつなぐときは『一、二、三、四、五』よ」
 発進、そしてクラッチを切りギアを二速に変え、クラッチをつなぐ。動力が伝わった。エンジンの音にわずかな変化が見られた。
「はい、止まって」
 宗太郎は停止した。しかしギアは二速に入ったままだった。美琴はそれに気づき、宗太郎に言った。
「止まって足をつく前に、ギアは一速にもどすようにしようよ」
「つい忘れちゃうんだ」
「あのね、止まるときって、必ずクラッチを握ってるでしょ。そのときに同時にギアをもどす習慣をつけておくの」
「難しいな」
「慣れだね。何べんかやってみてごらんよ」
 宗太郎は「ギア二速から一速にして停止」の練習をおこなった。美琴は気のすむまで何度でもやればいいとだけ言った。あれやこれやとうるさく言う人がいないことで、かえって練習に身が入った。
 その結果、まだ不安定ではあるが、停止のときにギアを一速にもどせるようにはなった。
「それじゃ、次は、と……課題の中で何か、これが苦手だ、っていうのはない?」
「坂……」
 宗太郎はぽつりと答えた。
「ああ、坂道発進か。わかるよ。あたしもこれ、苦手だったもん」
 美琴はそう言うと、周囲を見渡し、練習できるような坂道がないか探してみた。
「あ、あそこが使える」
 川原に下りるために造られた、細い坂道があった。土手を横切るようにくっついた道で、傾きもちょうどよかった。
 美琴はバイクに乗る宗太郎を、その坂道まで誘導した。
「要領は、わかってるよね」
 美琴は、上り坂の途中で止まったままのバイクにまたがる宗太郎に、坂道発進の指導を始めた。宗太郎は今クラッチを握り、右足で後輪ブレーキのペダルを踏んで、持ちこたえている。
「うん。でも、うまくいかなくて……」
「じゃ、コツを教えるね。坂の場合は、平地よりも多めのアクセル量が必要なの。そうねえ、四〇〇〇回転まで上げてみようか」
 宗太郎はアクセルを開き、言われたとおり一分間あたり四〇〇〇回転まで上げた。ブオーンという大きなエンジン音がひびく。
「そこで、クラッチをゆっくりつないでみて。途中で音が変わるところがあるはず。そこが半クラの位置よ」
 今度はクラッチレバーをゆっくりともどしていった。確かに途中で、エンジンの音が変わるところがあった。
「その状態のままブレーキを離すんだけど……」
 ガクン。美琴が話をしているさいちゅうに、あれだけ大きかったエンジン音は、突然止まった。宗太郎が早まって発進しようとして、失敗しエンストしたのだ。
「あー、くそっ。やっぱりできない」
 くやしがる宗太郎に、美琴はおだやかに注意をうながした。
「ソウちゃん、人の話は最後まで聞こうね。まだ説明の途中だったんだよ」
「あ、ごめん……」
 宗太郎は再びエンジンをかけた。そこで美琴は説明の続きをした。
「ブレーキを離してもクラッチはすぐにつながずに、少しの間……まあ二秒ぐらいとしようか」
 美琴は右手で二本の指を立てて見せた。そのうえで説明を続けた。
「二秒ぐらい半クラのままで進むの。それからゆっくりつないでね。急につなぐと、エンストするよ。さあ、やってみよう」
 宗太郎は再びアクセルを開き、クラッチを半クラッチにして、ブレーキペダルをゆるめた。そして言われたとおり、二秒間半クラッチのままで走り、それからつないでいった。
 坂道発進がうまくいった。
「よーし、できたできた! この要領でいってみようね」
 美琴はこのときも、とにかくできたことをほめた。
 それから宗太郎は、坂の上で発進と停止をくり返して練習した。美琴から教えられはしたものの、うまくできたのは割合にして六割程度だった。
「くそー、何でいつもうまくいかないんだ」
 川原に下りた宗太郎は、くやしそうに言った。その様子を見た美琴は、こう思った。
《やっぱり、少しの失敗でも相当心に残っちゃうみたい。ひとつの失敗で「すべてダメ」という思いこみが強いわ。そりゃ教習でくじけそうになるわね》
 そして、美琴はアドバイスを送るのだった。
「ソウちゃん、何も完璧な運転を目指す必要はないんだよ」
「え?」
「ソウちゃんて、表か裏、白か黒、ゼロか百っていうように、両極端なふたつの考え方しかしてないように見えるのよ。だから少しでもダメだと全部ダメ、と思っちゃうのね。その中間で、ほどよい状態でいる、っていうのが難しいみたいね」
「そうかなあ」
「非のうちどころがない完璧な運転なんて、誰もできっこないわ。誰でも苦手なところがあって当たり前なのよ。苦手は練習するべきだけど、そこで完璧を求める必要はないと思うわ。『できるだけよい運転』程度でいいんじゃないかな」
「わかんねえよ。どんなのが『できるだけよい』んだ。苦手をそのままにしたら、事故につながるんじゃないのか」
「うーん、ソウちゃんには難しいことかもね……」
 美琴はひとつ、ため息をついた。それから気を取り直して、宗太郎にたずねた。
「でも、今回ここで練習して、よかったでしょ?」
「そうだな。また教習に行ってみようかな、と思った」
「よかった。そう、もう一度挑戦してみなさいよ。まだ卒業期限は来てないんだし。今からでもじゅうぶん、やり直せるわよ」
「よし、もう一度やってみるか」
 宗太郎から決意の言葉を聞いた美琴は、うれしくなった。自分が時間をさいて考えた今回の個人指導も、決してむだではなかったと、美琴はほっとした気持ちで思うのだった。


posted by エビフライ飯 at 22:26| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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