2010年11月05日

7.再び目指せ、風の世界

 美琴が宗太郎に個人指導をおこなってから一週間ほどした日の夜だった。
 住んでいるアパートの自室にいる美琴の携帯電話から、着信メロディが流れた。
「はい、春川です」
「あ、ミコちゃん? おれおれ」
 受話口から敬次郎の声が聞こえてきた。敬次郎は自分の家の自分の部屋で、携帯電話からベッドの上に座りながらかけていた。
 すぐに相手が敬次郎だとわかった美琴だったが、ちょっとしたイタズラ心が働き、こんな言葉を返した。
「おれおれって、振りこめサギですかあ?」
「やだな、敬次郎だよ。高原敬次郎」
「ふふふ、わかってるわよ。ちょっとからかっただけ」
「かーっ、冗談キツイよなー」
 そう言った敬次郎だが、実は冗談だとわかっていて、わざとこっちの話に乗っていると、美琴は敬次郎の話しぶりですぐにわかった。と同時に、これがもし相手が宗太郎だったら、じょうだんだとわからずにそのまま言われたことを受け止めて、傷ついてしまうかも、といったことを思った。
「で、ケイちゃん、何か用?」
「あ、実は、ミコちゃんに相談したいことがあるんだ」
「相談? めずらしいわねえ。悩みなんかないような顔してるケイちゃんが」
「あーっ、何だよ、その言い方。なんかムカつくなー。おれだって、悩み多き若者なんだぞ」
「へへ、ごめんごめん。じゃ、聞こうかな。その悩みを」
「ああ、実はな、おれ今サッカーやってるけど……」
「うん、それで?」
「おれ、もうやめようかな、と思って」
「え? またー、冗談を」
「いや、これはマジ。本当にやめようかと思ってるんだ……」
 それまで明るかった敬次郎の話し方が、一転して押しつぶしたような声で、静かなものに変わった。美琴はそれを聞いて、これは本当に悩みをかかえているなと思い、おもしろ半分で聞いてみようとしていた態度を、急いでまじめな態度に変えて聞くことにした。
「でもケイちゃん、あんなに熱中してたじゃない。レギュラーを目指すんだって言って、いっぱい練習してたじゃない」
「そうなんだけど、実は、な……」
 受話器の向こうの敬次郎は、視線を自分の足元に向けていた。
「実は、何なの?」
「おれ、足をケガしたんだ。練習中にやっちまった」
 敬次郎の右足には、痛々しく包帯がぐるぐると巻かれていた。
「治るまで、どれくらいなの」
「少なくとも半年は覚悟しろって。スジが切れているところがあるんだとよ」
「じゃあ、その間サッカーは……」
「もちろん試合どころか、練習も無理さ。せっかくレギュラーを目指してたのによ。たぶん治るころには、もう完全にレギュラーの対象から外されてるだろうし、治っても満足なプレイはできないだろうな。くそっ!」
 敬次郎は拳をベッドにたたきつけた。
 いつもは明るい口調で話をしてくれる敬次郎が、めずらしく弱気な話しぶりだった。しかし、そんな敬次郎の悩みを聞いても、美琴はすぐに適切な答えを返せずにいた。
 そんなとき、敬次郎は自分から話を進めていった。
「でさ、おれ、気づいたことがあるんだ。人間って、こんなちょっとしたことで挫折して、その後の希望する道から外れてしまうんだな、って。それを思うと、おれ、兄ちゃんのことを笑えないんだよな」
「ケイちゃん……」
「なんかさ、兄ちゃんの気持ちが、なんとなくわかるんだよ。今まで、何をやってもちょっとのことでくじけて根性がないなあ、なんて思ってたけれど、おれだって人のこと言えなかったんだよな」
「そっか。で、そのソウちゃん、また教習に通ってるの?」
「ああ、通ってるぜ。しかも今までとは違うんだ。なんかさ、気持ちが前向きに見えるんだ。以前はゆううつそうな顔ばっかりしてたのに」
「そうなんだ。ならよかった」
 美琴は安心した。宗太郎が元気になって、また教習所に通うようになったと知り、自分がやった個人指導は決してむだではなかったのだと、あらためて思った。
「そんな兄ちゃんを見てるとな、思うんだ。兄ちゃんは免許を目標にがんばっているのに、おれは今何をやってるんだろうな、って」
「しかたないわよ。足をケガしたんじゃね」
「そう開き直れたらいいんだけどな。やっぱりショックではあるんだよ。レギュラー目指して猛練習してきたのに、ほんの一瞬のできごとで、それがくずれてしまったことが」
「まあ、どうするかはケイちゃんの決断次第だけど、あたしからこれだけは言っておくから」
 美琴はようやく敬次郎へのアドバイスが見つかった。それを美琴は口に出して言った。
「自分が後悔することのない判断をするように、ね」
「わかった。ありがとう、ミコちゃん。こんなこと話せる相手、ミコちゃんぐらいだからさ……」
「そっか、ならこっちこそありがとうね。もう、話はいい?」
「いいよ。それじゃ」
 敬次郎は電話を切った。
 電話で話したあと、美琴はふと思った。
《ソウちゃんにしろ、ケイちゃんにしろ、それぞれ形は違っても、悩みをかかえているんだね……》

 宗太郎は教習が順調とはいかないまでも、それなりに進んでいた。
 再び教習所に行き始めた日、宗太郎は以前自分が暴言をはいた相手である、垣内にわびた。
宗太郎自身の意思ではなかった。美琴から「おたがいに気分のいい状態でやりたいでしょう? ならまずは教官にあやまるべきよ」と言われて、しぶしぶおこなったにすぎない。それでも垣内は、いちおう宗太郎が反省していると見て、再び教習をおこなうことにしてくれた。
 世間では、これも円滑な人間関係をたもつための手段となっているが、宗太郎にはそこまでわからず、いつまでも納得のいかないままの気持ちでいた。
 そんな気持ちを引きずりながらも、教習を再開した宗太郎だが、ひさしく教習に臨んだハンデがあったこともあり、第一段階は通常より二時限超過したうえで、何とか通過できた。発進もスムーズにできるようになり、いくらか運転に進歩が見えてきた。
 今は第二段階に入っている。だが第二段階は、運転の技術だけが課題なのではない。コースを実際の道路に見立て、交通法規に従って運転をしていく、ということまで課せられる。
 宗太郎にとっては、これは新たな壁と感じた。第一段階を通過したとはいえ、まだまだ運転だけで手いっぱいの状態である。それに加えて法規に従った走行をしなければならないのだ。
 バイクの操作と同時に、今走っている道路の状況、標識、信号、周囲のあらゆるものに目を配っていく必要がある。しかし宗太郎はそれが苦手である。ものを見ようとすると、決まって一部分にしか目が行かない。それで第二段階最初の教習では、信号や標識を見落とすばかりした。
 やることが一挙に増えた。それで、宗太郎は教習にやっとついてきている、という表現が当てはまる。
「もっと周りをよく見て! 注意力が足りないよ」
 指導員・垣内は、変わらずに宗太郎へ強い口調で指導をする。こればかりは、ちっとも慣れることができない。
 さらに宗太郎にとっては、ひどく思い知らされたことがある。幼少のころにすべての意味までも覚えたはずの道路標識が、実際に自分で運転していると、うまく確認できないのだ。完璧に頭に叩きこまれているはずの標識なのに、いざ自分が運転するとなると、もうそれだけで応用がきかない状態となってしまう。知識が技能についていかない、まさにそういった表現が当てはまるのだった。

「ふう……」
 教習を終えた宗太郎は、二輪教習待合室の中で、ひじとひざに着けたプロテクターをはずしながら、大きく息をついた。
「お疲れ!」
 突然そのような声が聞こえた。誰かと思った宗太郎は、顔を上げた。
「よっ、きみ、高原くんだよね。よく学科の教室で見てたから、名前覚えたんだ」
 そう言っている少年の姿があった。見たところ、歳は宗太郎と同じくらいだ。
「ああ……」
「おれ、梅島剛輝(うめじま ごうき)ってんだ。歳は十七。きみは?」
 こっちがたずねてもいないのに、その少年は自分の名前と年齢を言ってきた。
「高原宗太郎」
 宗太郎は答えた。剛輝はなおもたずねてくる。
「んで、歳は?」
「あ、十六」
「おお、資格年齢になって、さっそくの挑戦ですかい。たいしたもんだ。それでさ、おれも今、第二段階なんだ」
 宗太郎は剛輝を見て、何なんだコイツは、と思った。こっちにかまわず勝手なことをたずねてきて、勝手なことを口にする。宗太郎はこの手の人間が、あまり好きではない。
「ま、おたがいに教習、がんばっていきましょうや。そいじゃ、おれはこれにて」
 剛輝はそう言い残して、二輪教習待合室から出た。いったい何だったんだろう。宗太郎はいつまでもそう思うのだった。

 宗太郎はそのあとに学科教習を受けた。
 教習所に入ったばかりのときは、学科教習が二十六時限もあると知って、ゆううつな気持ちになった宗太郎だったが、その学科教習も半分以上受講して、残るはあと十時限となっていた。
 指導員の話を聞いていても、決まって途中で内容がわからなくなってしまう宗太郎だが、この教習所では指名されて質問に答えるということはない。よって指導員から注意されることもないので、それだけはましだと思っていた。
 教習開始前、宗太郎のとなりに誰かがすわった。
「よっ」
 この声を聞いて、宗太郎はとなりの席を見た。そこにいたのは、さっき初めて顔を合わせた梅島剛輝という少年だった。
「あ、ああ」
「また会ったね。おお、きみは学科、まだだいぶ残ってるね」
 剛輝は、宗太郎の教習原簿に押されている教習終了のハンコの数々をのぞき見し、また勝手に自分から話を始めた。宗太郎は正直、うざったいと感じた。
 それでも剛輝は、なおも話を続けた。
「おれ、学科はこの時間ので終わりなんだ。これで学科は全部終了、次は効果測定。これ受かんないと、技能の卒業検定、受けられないんだよな。このあと効果測定申しこむけど、おれ自信ねえんだよなー」
 宗太郎はそれを聞いて、はっとした。大事なことに気がつかされたのだ。
 効果測定――学科をすべて受講した者が受ける、今まで学んだことについての総合的試験。いわば学科の卒業試験である。これが教習所卒業のための第一関門といえる。
 そうなのだ。剛輝が言ったとおり、まずは効果測定で合格点を取らないと、技能の最終試験である卒業検定は受けられないのである。宗太郎は技能のことばかりにとらわれていて、そのことまで頭が回らなかった。
 そのとき宗太郎は、こう思っていた。
《よかった、そうだったのか。こいつ、話してるとうざったいけど、こいつが効果測定のこと言ってくれなきゃ、おれ知らないままだったよな……》
 宗太郎は剛輝のことを、少しだけいいヤツかな、と感じた。

 その翌日、宗太郎には技能教習が一時限あった。
 技能教習は、第一段階では一日二時限まで、第二段階に入ると一日に三時限まで受けることができる。しかし宗太郎は、いつも一日一時限ずつしか予約をとらないことにしている。技能教習は宗太郎にとって、かなり神経を集中させ、またすり減らすものであるので、一日一時限が限度なのである。
 そして教習はすべて夕方に受ける。宗太郎は十六歳、本来ならば高校へ通っているか、仕事をしているかのどちらかである。午前中や昼間に行くと、周りから「こんな時間に何をしているのか」と思われそうで、それがイヤなために、わざわざこうしているのだ。
 普段は他人のことをあまり気にすることのない宗太郎なのだが、なぜかこういったことは深く気にするのだった。
「お、今日もいっしょだね」
 教習前、宗太郎が二輪教習待合室で準備をしていると、聞き覚えのある声が聞こえた。やはり剛輝だった。
 宗太郎は無視した。剛輝自体がうっとおしい存在であることも理由のひとつだが、それ以上に他人を無視する決定的な理由がある。
 宗太郎はこれまで、何人かの人間から「友達」になることを求められた。しかしすべて、のちに裏切られイジメの標的にされた。以来、宗太郎は他人を信用できなくなった。今目の前にいる剛輝のことも、それらを同類だと決めてかかっているのだ。
「おれ、今日が見きわめなんだ。気合入れるぜ」
 いつものように、剛輝は勝手に自分の話を進めていった。他人が見きわめ――教習の総仕上げで、合格点に達しているかどうかの確認――であるなど、宗太郎はどうでもよかった。
 その日の教習は、交通法規に従った走行の練習に、各課題の練習だった。卒業検定では、法規走行に課題が混ざったコースでおこなわれる。ここまで来ると、教習はいわば卒業検定の練習であるともいえる。
 宗太郎は相変わらず「バイクの運転に加えて、法規に従う」ことに苦労している様子だった。道路(実際は教習所のコースだが)というのは前方だけでなく、横にも後ろにも、周囲全体に情報が存在する。右折のときには左右から車が来ているかもしれず、車線変更をしようとすれば、後ろから車が来ているかもしれない。よって左右を自分の目で見ながら、そして後ろをバックミラーで見ながら走ることも必要になってくる。
「前を見て運転しながら周囲も見ろ」
 これは垣内から言われていることである。
 宗太郎の脳は、それら大量の情報を処理することがかなり困難である。そのうえ「前を見て運転しながら周囲を見る」という言葉について、宗太郎は「前を見なければ、よそ見運転になって危ない」と思ってしまい、できるわけがないことと感じている。
 宗太郎は、周囲の全体像を見渡すことが難しいのである。
 結局、この日の教習もそのことに気をとられてしまい、運転が思うようにいかず、課題まで失敗が目立った。
 そのたびに、垣内からきつく注意を受ける。毎度のことだが、宗太郎にはこれが心の負担となる。これも技能教習を一日一時限しか受けない理由である。

「くそお……どうしてなんだ……まったく……」
 教習終了後、宗太郎は二輪教習待合室の中で、ぶつぶつとそんな言葉をもらしていた。同時に、教習でうまくいかないくやしさをかみしめていた。
「よっ、お疲れ」
 同じく教習を終えた剛輝が、そう言ってきた。
「きみ、歳が十六だって言ってたな。高校はどこ通ってんの」
 宗太郎の体に、一瞬にして体が燃え上がるような感覚が走った。それは宗太郎が今いちばん答えたくない質問である。答えたくないので、宗太郎はただひたすら何も言わずにいるしかなかった。
「あ、言いたくないなら、無理に言わなくていいよ。ごめん」
 剛輝はそう言ってくれた。宗太郎は少し救われた気分になった。
「おれはな、今十七歳だけど、普通の高校じゃなくて、通信制の高校に行ってるんだ」
 剛輝のその言葉を聞いた宗太郎は、「通信制高校」と言ったことに反応し、剛輝のほうを向いた。
「いやさ、特に理由はないんだよ。ただな、おれってひねくれたところがあって、平凡な道を行くのって、あんまし好きじゃないんだよね。それで、ちょいと違う道を行ってみるかってんで、通信制を選んだんだ」
 剛輝は自分の事情をたんたんと語った。なおも話は続く。
「そいで、学校から『来い』と言われたときだけ学校に行けばいいから、空き時間がある。おれはその時間をアルバイトにあてたり、今みたいに教習にあてたりしてるわけだよ。ま、普通の高校生とはちょいと違った生活を送ってるんだけど、これはこれでけっこう楽しいもんなんだ」
 宗太郎の耳には、聞くつもりもないのに剛輝の話が入ってきた。そこで宗太郎は思った。こいつはどうしてそこまで自分のことを開け広げに言えるのか、と。自分のことをあまり知られたくないと考える宗太郎には、わからなかった。
「へへっ、おれって変なヤツだろう? 他人からよくそう言われるよ。でも、それでいいと思っているんだ。どう思われようが、おれはおれだからな」
 自信たっぷりに、剛輝は言った。
 宗太郎は一瞬だけ、確かにちょっと変わったヤツだな、と思った。「変なヤツ」それは、今まで宗太郎自身が言われてきたことでもあった。
 しかし剛輝には、宗太郎と決定的に違うところがあった。変だと言われても、それでいいと思っている点である。宗太郎はそんなふうに思われるなど、とても耐えられないことと感じるのである。
 宗太郎は内心、剛輝のことがうらやましかった。変だと言われても、そこまで平然としていられることで。
 宗太郎は、別に剛輝を相手にしようとは思わないが、気になる存在にはなりつつあった。
「さーて、見きわめもらったし、効果測定受けて、卒検だー」
 そう言いながら、剛輝は去っていった。
 一方、宗太郎は早くも次の教習のことを考えていた。こっちは効果測定や卒業検定どころか、まだ第二段階も終わっていないのだ。
 なかなか思うような運転ができずに悩む宗太郎だが、それでも最初のころ、発進すらうまくできなかったことを思うと、確実に進歩はしているのだ。
 何よりも美琴にしてもらった個人指導が大きかった。あれがなければ、今こうして教習を受け続けていることは、なかったかもしれない。あれで少しは自信がついたことは確かである。
それと、今は十月に入り、気候もすずしくなって、すごしやすくなった。もう長そでを着て手袋を着けても、暑くは感じない。よって運転もやりやすくなった。
 だから、今やっている法規に従う走行も、回を重ねればきっとうまくいくと、宗太郎は思えるのである。
 もうここまで来たなら、この先の教習をこなしていくだけだ。運動能力が劣っていても、「運転はまったくダメ」というわけではないことは、ここまで教習についてこられたことで証明されている。まだ時間はある。じっくりと練習をしていこう。目標である風の世界は、もう近くまで来ているのだ。
 宗太郎の考えは、いつしかこのような前向きなものになっていた。


posted by エビフライ飯 at 22:23| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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