2010年11月05日

8.木曜日に向けて

 宗太郎の教習も、いよいよ大詰めとなった。
 宗太郎は学科教習を、技能教習よりもひと足早く全部受けた。そして効果測定を受けた。結果は合格。これで学科に関してはすべて終了である。あと残るは数時限の技能教習、そして技能の最終試験――卒業検定だ。
 剛輝の言葉を聞いていなかったら、忘れるところだった効果測定。本来ならばあのとき、そのことに感謝して、それがきっかけで剛輝とは友達の関係になる、という流れになりそうなものである。
 しかしそれでも、宗太郎は剛輝と友達になろうとは思わなかった。確かに効果測定のことを言ってくれたのは、ありがたいとは思った。しかし宗太郎は、そのささいなことが友達の関係を作り出すということに気がつかなかった。
 宗太郎は、本当は友達を求めているのである。しかしこのように、友達になるきっかけにも気がつかないので、なかなか友達ができないのである。
 そのうえ宗太郎は、みずから見えない壁を自分の周囲に置いていた。どうしても他人が信じられず、もう他人に深く立ち入りたくないし、自分が立ち入られたくもない。そのため剛輝の前では何も言わずにいたのだ。
 その剛輝も、おそらく効果測定を受け終え、また卒業検定を受けたのだろう。合格したなら、もう見ることはないだろう。宗太郎はそう思って、もう剛輝のことを気にしていなかった。

 その日は教習が午後六時からだったことで、宗太郎は夜遅く家に帰った。
「おお、おかえり」
 宗太郎が遅い夕食をとろうと食卓に行くと、そこには伸が先にすわっていた。伸もさっき帰ってきたところなのだ。
「あ、宗太郎、食べながらでいいから、話を聞いて」
 綾子が宗太郎の正面に向かい合ってすわり、話を始めた。
「この間言ってた、病院へ検査をしてもらいに行く話。来週の木曜日の午後四時に予約をとってるけど、その時間に教習の予定は入れてないわよね?」
「えー、その日、卒業検定だ」
 宗太郎は教習所で垣内から言われた。効果測定に合格したなら、もう卒業検定の申しこみをしておけ、と。事前に申しこんで、技能教習が終わる予定の日の翌日を卒業検定の日としておけば、運転にいくらか慣れた状態で臨めるのでよい、と言うのだ。
 宗太郎はその言葉に従って、卒業検定の申しこみをした。日時は来週の木曜日、午前九時からである。教習が終わって日が空いてからだと、検定のときにうまく運転できるか不安だと感じたので、平日の朝ではあるが、やむを得ずその日に決めた。
「あらまあ、それ、何時からなの?」
「朝の九時」
「うーん、午前中か。でも検定が午後までかかるかもしれないしねえ……今から予定を変更できない?」
「やだよ。もう変えたくない。せっかく日にち決めたのに、調子くずすじゃんかよ。病院のほうを別の日にしてくれよ」
「そういうわけにはいかないわ。順番待ちがいっぱいのところを、やっと予約が取れたんだから。変更するとなると、また先まで待たなきゃいけないんだから」
「また先にしてくれていいよ」
「わがまま言わないの」
 おたがいの考えがかみ合わない宗太郎と綾子の会話。そこに伸が割って入った。
「待った。教習所の検定は、朝からやるなら午前中で終わるんじゃないのか」
「え?」
 綾子は伸のほうを向いた。
「これはわしが普通免許を取ったときの話だが、そのときも卒業検定が朝からあって、確か午前中で終わった記憶がある。二輪の場合も似たようなものじゃないか」
「そうなの? だったら両方とも同じ日にしても、いいかもしれない」
「くわしいことは、美琴ちゃんに聞いたらどうだ? あの子なら知っているだろう」
「そうね。じゃ、さっそく電話で聞いてみるわ」
 綾子は立ち上がり、電話のあるところへ行った。
 宗太郎は実のところ、病院へ検査に行くことは気が進まない。行く理由が「自分の頭がおかしいから」だと、まだ思っているのだ。それを医師に調べられたり、自分でもそのことを知らされたりするのが、宗太郎は不安なのだ。
 宗太郎はそんな不安な気持ちにさいなまれながら、ぼそぼそと夕食を食べ続けた。
 しばらくして、綾子がもどってきた。そしてこう言ってきた。
「宗太郎、だいじょうぶみたいよ。さっき美琴ちゃんから電話で聞いたら、美琴ちゃんのときも検定が朝からで、午前中で終わったって。木曜日なら平日だから、受ける人も少なくて早く終わると思う、だって」
「そうか、だったら宗太郎、おまえの検定の予定も、病院の予定も、動かさなくてよさそうだな」
 伸が笑顔を浮かべて、宗太郎に言った。しかし宗太郎は、こうたずねてきた。
「えーと、おれの卒業検定の日は、どうしろっていうの?」
 宗太郎は、綾子と伸が話したことだけでは、当日どう対処すればよいか、つかめなかった。そのために出てきた質問だった。
 綾子があらためて説明をした。
「つまり、当日は宗太郎の予定どおり、朝九時から検定に行って、それが終わり次第、お母さんといっしょに病院へ行く、ってこと」
「うーんと、えーと……」
 当日の予定が、自分が思い描いていたものと違ってきたことで、宗太郎は頭の中がこんがらがり、まだ流れがつかめずにいる様子だった。そこで伸が言った。
「紙に書いて渡したらどうだ」
「あ、そうね」
 綾子はすぐさま、近くに束になって置かれていた折りこみ広告チラシを一枚、取り出した。そしてその裏に、来週の木曜日当日の予定の流れを書いていった。

朝9時 教習所で検定
 終わったらなるべく早く、昼の2時までには家にもどる
 そこからいっしょに病院へ直行
 遅くなりそうなら、家に電話をすること

 そう書かれた紙を見せられた宗太郎は、ようやく流れがわかった様子だった。
「初めからこうしてくれよ。言われてもわかんないじゃんか」
 綾子の親切もわからず、宗太郎はそんな言葉を口にした。それを聞いた綾子は、ついむかっとなって強い口調になって言った。
「だったら聞いただけでわかるようになりなさい!」
 美琴からの話で、アスペルガー症候群の人は「耳で聞くだけよりも、目で見る情報があったほうが、認知しやすい」ということを、綾子は聞いていた。しかし、宗太郎が親の心づかいもわかっていないかのような態度に思えたため、ついきつく言ってしまった。
 一方の宗太郎は、徐々に不安な気持ちが増してきていた。最大の難関である卒業検定に受かるかどうかの不安、そのあとに行く病院での不安。例によって宗太郎は、先のことがとても気になり不安になる。そんな思いでいる中での母親のおしかりは、さらに不安を増大させた。

 次の週の水曜日。宗太郎は順調に行けば、今日の教習で第二段階の見きわめ、そして技能教習はこれで終了となる。学科教習をすでに終えた宗太郎にとっては、もうあとはこの技能がすべてである。
「よっ、高原くん」
 その日も教習前にも、そのような声が聞こえた。誰なのかだいたい想像がついた宗太郎だったが、声が聞こえたほうをそっと向いた。
 やはり剛輝だった。
しかし宗太郎は即座に疑問に思った。彼はもう教習をすべて終え、卒業検定も受けたはずなのに、なぜまだここにいるのか、と。
その真相は、剛輝本人がみずから言った。
「いやー、まいったよ。卒検、落っこちちまったんだ。一本橋で脱輪しちゃってさ、そのままジ・エンドだ」
 卒業検定の課題のひとつである「一本橋」、これはもし途中で脱輪してしまえば、そこで検定は中止、つまり不合格決定である。
「バカだろ、おれって。まったく、自信満々で挑戦しながら、あんなミスしちまうんだからな、ほんと、おれは未熟者だったよ、ははは……」
 剛輝はそう言って、自分の失敗を自分で笑った。
 それを聞いた宗太郎は、信じられない気持ちになった。この梅島剛輝というヤツは、卒業検定に落ちたというのに、どうしてそんなに気楽でいられるのか。自分だったらショックで立ち直れるかどうかもわからないことなのに、と思った。
 さらに剛輝は、相変わらず自分の話を勝手に進めていく。
「それでさ、今補習教習受けてるわけだ。今日でその補習が終わって、明日卒研に再挑戦するんだ」
 それを聞いた宗太郎は、はっとした。明日といえば、宗太郎も卒業検定を受ける日である。剛輝と同時に受けることになると知り、宗太郎は調子をくずされそうな気分になった。
 卒業検定に病院と、翌日は宗太郎にとっての「不安要素」がふたつもあるのに、剛輝が卒業検定を自分と同時に受ける。宗太郎の心の中にある不安は、いっそう強まった。
 そんな気持ちのまま、宗太郎は教習に臨んだ。

 見きわめをおこなう指導員は、垣内だった。これまで宗太郎は、この垣内からは何度となく厳しい言葉を言われた。宗太郎にとっては、もっとも印象に残る指導員で、またもっともつきあいたくないと思った指導員である。その垣内が、見きわめをおこなうのである。
「今日は総仕上げだ。検定で走りそうなコースを実際に走っていこう」
 教習の初めに、垣内はそう言った。
 そして宗太郎は、事前に記憶させられたコースを実際に走っていった。しかし、これがそのまま検定のコースになるわけではない。検定のコースは、当日にならないと発表されないのである。宗太郎はバイクに乗って走りながら、事前にどの経路で走るのか知らせてくれれば覚えられて楽なのに、と思っていた。
 一本橋、直角クランク、S字カーブ、スラローム、坂道発進、急制動の各課題をひととおりおこなったが、宗太郎は一本橋と坂道発進、急制動でつまずいた。一本橋は途中で脱輪してしまい、坂道発進ではこの期におよんでエンストさせてしまった。どちらも宗太郎が当初から苦手としている課題で、よく失敗するのはたいてい、この二項目だった。特に坂道発進は、美琴の個人指導でいくらかコツをつかんだものの、以前教習中に垣内ともめた一件のもととなったことから、もっとも大きな苦手意識がついてしまっていた。
 そして今回は、今までうまくいっていたはずの急制動でも失敗してしまった。
 急制動は、直線の道を時速四十キロメートルで走り、所定の地点でブレーキをかけて、所定の位置の線までで止まる。しかし宗太郎は気があせってしまい、制動開始地点に入る前にブレーキをかけてしまった。そのうえ急激に力いっぱいかけてしまったので、タイヤがロックし横すべりしてしまったのだ。
 このときの宗太郎は、停止目標の線を越えないようにと、しきりに思っていた。うまくやろうと思うあまり、本来の動きからはずれてしまったのだ。
「くっ、何で見きわめのときに、こんな失敗を……」
 宗太郎は自分を責めた。そんな宗太郎に、垣内がこう言ってきた。
「固くなるな。いつもと同じことをしていればいいんだ。さあ、もう一度同じコースを行こう」
 その言葉につられるように、宗太郎はもう一度課題に挑戦した。「いつもと同じこと」垣内の言葉のとおりに、宗太郎は走っていった。
 しかし、今度は一本橋と急制動こそうまくいったものの、いちばんの苦手、坂道発進でまたエンストした。
「いつもここだ……何度もやってきたのに、何でなんだ……」
「どうやらずっと、ここが苦手のようだな」
 垣内が横に止まって言った。垣内にはそのつもりはなかったが、その言葉は宗太郎にとってはイヤミにしか聞こえず、気分のいいものではなかった。
 それでも宗太郎は、あらためてエンジンをかけ直すと、今度は何とか上り坂で発進させることができた。
できるときはできるのである。ただ、頭でわかっている要領が、宗太郎の場合はときどきポーンと吹っ飛んでしまうことがあるのだ。課題ができたりできなかったり、ムラがあるのはこのためなのである。
 その日の教習は終わった。法規走行は全体的に何とかうまくはいったが、課題でいくつか引っかかるところがあり、宗太郎本人はその結果に納得していなかった。見きわめはもらえないかも、と思っていた。
 すると垣内がこう言った。
「高原くん、検定、がんばれよ」
 しかし宗太郎は、そう言われただけで「見きわめ確認=第二段階合格」であるとはわからなかった。
「教習はここまでだ。明日受けるんだろう? 検定。教習生手帳に申しこみ確認の印が押されているから。あとは教習でやったことをしっかり生かして、明日の検定に挑んでもらいたい」
 垣内が続けてそう言ったのを聞くと、宗太郎は教習原簿と教習生手帳を見た。両方に見きわめ確認のハンコが押されていた。そこで宗太郎は、ようやく自分が見きわめをもらえたと気づいた。
 垣内はさらに話を続けた。
「それと、これを言っておく。きみがここまでやれたのは、決してきみだけの力ではない、ということ。きみはわたしに暴言をはいたときもあったが、あのような他人をあなどる態度は、実際に運転をする際に、大きな事故につながりかねないぞ。それを忘れないようにな」
 そう言われても、宗太郎には納得しがたいものがあった。あれは垣内が自分を攻撃するような言葉を連発したからではないか、自分はそれに答えただけだ、暴言などと言われて不愉快だ、そんなことを思い続けた。
 しかし、次の垣内の言葉で、宗太郎のそんな思いは吹き飛んだ。
「とは言っても、きみはここまでやりとげた。それ自体は誇りに思っていい。じゃ、検定がんばるんだぞ」
 垣内はそう言い残して、その場を去った。
 宗太郎はそれを聞いただけで、うれしい気分になった。今までのくどくどとした説教に等しい話よりも、「きみはここまでやりとげた。誇りに思っていい」の言葉が印象に残った。これこそ宗太郎にとって、聞くと元気が出てくる言葉だった。
 そのときの宗太郎は、見きわめをもらえたことと、最後の垣内の言葉で、安心感に包まれていた。
「よっ、どうやらきみも、明日検定受けるようだね」
 剛輝が宗太郎のそばにやってきて言った。
「おれも無事、見きわめもらったよ。明日検定だ。きみとおれ、いっしょに受けることになるね」
 剛輝はいつものように、自分で勝手に話を進めていった。
 その話を聞いた宗太郎は、それまでの安心が一気に不安に変わった。よりによって、自分がうざったいと思っている剛輝が、同じ日に卒業検定を受けるのだ。また同じ空間で、この剛輝といっしょにいなければならないのかと、宗太郎は感じた。
「おれは二度目の挑戦となるけど、今度はヘマしないぞ。じゃ、明日お互いにがんばろうぜ」
 不安な気持ちの宗太郎をよそに、剛輝はそう言った。


posted by エビフライ飯 at 22:21| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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