2010年11月05日

9.最大の難関

 卒業検定の日はやってきた。
 その日の宗太郎は、朝起きたときから落ち着かない様子だった。受検を前に、かなりの緊張と不安が宗太郎を支配していた。
《これで、合格しなければ……でも、失敗しないだろうか……》
 宗太郎は早く自分の番が来てほしい、早く終わってほしいと、しきりに思った。順番待ちの席にいっしょにいる剛輝が、気楽にのんきに構えているのとは、対照的だった。

 前の夜、宗太郎は自分の部屋で、翌日の卒業検定のことを考え、予習をしていた。
 宗太郎は数枚の紙を手に、そこに書かれている文章を読んでいった。これには卒業検定においての心得が書かれている。
 これは美琴が書いて、宗太郎に渡したものである。美琴は一週間ほど前に家に来て、その「検定心得」を渡した。美琴自身の経験を元に、宗太郎のためにわかりやすいように説明を書いたのだ。そこには検定の際、課題その他で気をつけるべきことや、コツが書かれていた。
 宗太郎はその説明を声に出して読んでいった。
「えーと、一本橋。最初は勢いをつけて乗ってよい。そして、遅く行こうと思わずに、落ちないようにていねいに進めることを考えたほうがよい」
 そのように以降の説明も読んでいった。そのときの宗太郎は、完全に「検定心得」にのみ集中した状態で、周囲が完全に目に入っていなかった。
「とにかく脱輪したら、そこで不合格。たとえ七秒より早く行ってしまっても減点になるだけだから、脱輪するよりはるかにマシ、と……」
 その声はドアの向こうへも聞こえていた。廊下を歩く敬次郎にも、それは聞こえた。
《兄ちゃん、またひとりで何か言ってるな》
 宗太郎の部屋から声が聞こえることは、今回に限ったことではない。宗太郎には昔から、周りに聞こえるようなひとりごとを言うくせがある。敬次郎は廊下を歩くとき、何度も宗太郎の声が部屋のドアを超えるのを聞いてきた。そのたびに敬次郎は「気味悪いなあ」と感じた。
《明日が教習所の試験だって言ってたな。ま、今勉強してるみたいだから、ここはほっとくとするか》
 敬次郎はそう思いながら、痛む右足を引きずるように歩いて、自分の部屋へと向かった。
 一方、宗太郎は弟のことなどもちろん知らずに「検定心得」をひたすら声に出して読み続けるのだった。

 そしてむかえた今日の卒業検定。
宗太郎の番がやってきた。だが宗太郎の動きは見ていて固い。緊張と不安が最高潮に達したのだ。
《落ち着け。いつものとおりをしていればいいことだ》
 宗太郎は自分にそう言い聞かせた。
 いよいよ宗太郎の卒業検定は始まった。宗太郎はスタート地点に止めてあるバイクの前まで歩いていった。しかし体が思うように動かない。自分の意思とは裏腹に、右手と右足、左手と左足が同時に前へ出てしまう。
 何とかバイクの前まで来た。するとバイクについている無線のスピーカーから声が聞こえた。
「はい、では始めてください」
 今回の卒業検定の審査をおこなう検定員の声だった。検定員はコースのほぼ中央にある塔からコース全体を見渡し、審査をする。その塔からの声だった。
 宗太郎はそれに従い、バイクにまたがった。しかし、早くもミスをしてしまった。バイクに乗る前にサイドスタンドをもどすのを忘れてしまったのだ。あわてて宗太郎は乗ったままの状態で、サイドスタンドをもどした。
 そこからエンジンをかけて発進するのだが、宗太郎はここでもミスをした。緊張のあまり手がうまく動かず、発進の際にエンストしてしまった。
 宗太郎はおおいにあせった。昨日まで問題なくできていた発進でいきなりミスを犯したことで、不安が一気に増した。
《こうなったら、これからできるだけうまくやらなければ……》
 二回目でうまく発進できたものの、宗太郎の心に不安が残ったままでの検定開始となった。
 検定コースの中に組み込まれている各課題。まずは一本橋である。宗太郎自身苦手なほうの課題で、剛輝はここで引っかかって一度卒業検定に落ちている。いきなり不安の多い課題である。
 長さ十五メートル、幅〇・三メートルの一本橋。ここは速く行ってはいけない。七秒以上持ちこたえて走らなければならない。そんな一本橋を前にして、宗太郎は最初の停止位置にバイクを止めると、昨晩読み上げた「検定心得」に書かれていたことを思い出した。
最初は勢いをつけて。遅く行こうと思わずに、ていねいに
 その言葉に従って、宗太郎はバイクを発進させ、一本橋に乗った。ゆっくりと、バランスをとりながら、とにかく渡ることを考えながら走った。
 その結果、無事脱輪せずに渡りきった。七秒以上で渡れたかはわからない。それでも渡りきった。
 次はS字カーブ。道幅二メートルの道を、ゆっくりと通過さえできれば、ここは案外簡単に行ける。
 S字カーブの出口あたりの正面には信号がある。当然それには従わなければならない。運よく信号は青だった。そのまま行く。
 信号の先を左に曲がると、直角クランクへとさしかかる。ここも道幅は二メートルだ。だがここも、S字カーブと同じ要領で行けば恐れるに足りはしない。一速ギアのままで慎重に、横に置かれたパイロンに当たらないよう、ゆっくりと進んでいく。
 直角クランクの次は、車が通る道をはさんでスラロームなのだが、直角クランクの出口あたりで、宗太郎は右側から車が来るのが見えた。気づいた宗太郎はあわててクラッチとブレーキを同時に握り、出口で急に止まって左足をついた。これは車が来ていて止まったから、やむをえないだろう。宗太郎はそう思ったが、減点になってはいないかと不安にもなるのだった。
 車が通りすぎると、あらためてスラロームである。今止まっている位置から、宗太郎はアクセルを開き、ギアを一速から二速に変えてスラロームの開始点まで走った。
 スラロームはコース上に五個のパイロンが置かれ、それらを連続して小回りしながら通り抜けていく。これは遅く行ってはならず、スタートからゴールまで八秒以内で抜けなければ減点である。
 美琴の「検定心得」には、こう書かれていた。
「パイロンに当たると、そこで不合格決定。できるだけ速く行くのが大前提だが、とにかくパイロンに当たらないことを心がける。また、最後のパイロンを通過したら、アクセルを開いて速度を上げてゴールを抜ける。少しでも時間を短くするため」
 宗太郎はその言葉どおりに、スラロームを通過していった。ここも八秒以内で抜けたかまではわからなかったが、パイロンには当たらずに通過できた。
 その先は一般道路に見立てたコースを行く。今の宗太郎には周囲を見渡す余裕などない。それでも宗太郎は、とにかくていねいに行くようにした。これも「検定心得」に書かれていたことである。
 長い直線道路が目の前に見えた。次の課題、急制動である。
 時速四十キロメートル以上の速さで走り、その先に設定された制動開始地点に入ったところで、ブレーキをかけて止まる。今日は路面が乾いているので、止まる位置は制動開始地点から十一メートル先の線までである。もちろん線を越えると減点である。さらに、このとき速度が足りなかったり、制動開始地点に入る前にブレーキをかけたりした場合、減点そして一回に限りやり直しとなる。
 宗太郎は「検定心得」の中の、急制動についての言葉を思い出しながら、ひとつひとつの動作をしていった。
 二速ギアでアクセルを思い切り開いてから、三速ギアにチェンジ。加速して四十五キロぐらいまで出し、制動開始地点の約一メートル手前でアクセルをもどす。これでそのまま四十キロ以上は保てる。そしてそのまま制動開始地点に入ったらブレーキ。決して急激に力いっぱいかけない。「一、二の三」と三つ数えるペースでかければ、案外止まれる。そして止まったら、忘れずにギアは一速にもどす。
 この課題は「検定心得」を思い出しながら実行できたので、止まること自体は、線も越えず横すべりもせず、うまくできた。
 するとスピーカーから検定員の声が聞こえた。
「はい、それでは周りを確認して、行ってください」
 しかし宗太郎はとまどった。さっきの急制動は、あれでよかったのか? やり直ししなくてよいのか? 検定員のその言葉だけでは判断できなかった。
「どうしました? そのまま行っていいんですよ。急制動はあれでOKです。前に進んでください」
 それでようやくわかった。急制動はあれでよかったのだ。状況をのみこめた宗太郎は、大げさなくらいに首を動かして周囲の確認をおこない、それから発進した。
一時停止の場所、踏切の前、交通法規に従いきちんと止まって左右を見た。左右を確認する色合いは薄いものだったが、しないと減点である。言い方はよくないが、ただ見るだけでも、しないよりいくらかマシである。
 その次にさしかかったのは上り坂。ここでは宗太郎がもっとも苦手としている、坂道発進をおこなわなければならない。坂の途中でいったん止まった宗太郎は、苦手意識から手と足がふるえていた。
《ここは……いちばんよく失敗していたところだ……できるか?……うまく……》
 宗太郎は左手でクラッチレバーを握り、右足でブレーキペダルを踏み続けたまま、アクセルを開いた。美琴から教わった、一分間あたり四〇〇〇回転のアクセル量。手順どおりにいけば、この次はクラッチレバーを少しもどして半クラッチの状態にするはずだった。
 だが、ふるえた手と足では、思いどおりの動きをするのは困難だった。宗太郎はブレーキを離すと同時にクラッチをつなげてしまい、ガクンとエンストした。これまで何度もやってきた、同じ失敗だった。
《やっぱりやってしまった……》
 宗太郎はショックを受けた。気持ちがなかなかすぐに切り替わらない。不安でいっぱいの状態になりながら、宗太郎はエンジンをかけ、再び挑戦した。
 さっきと同じく手と足がふるえはしたが、エンストせずに発進することはできた。しかしそれは、車体がガクガクと上下に動き、今にもエンストしそうな状態での発進だった。
 宗太郎はこのとき、もうこれでダメになったかもしれないと思った。一回坂道発進に失敗し、二回目はいったものの、とてもスムーズな発進とはいえないものだった。これでかなりの減点になっただろうと、坂道を登って降りる最中、ひたすら思いこんだ。

 そして、宗太郎の卒業検定は終わった。
 宗太郎はバイクを降りたあと、まるで何かに絶望したかのような表情になっていた。
「お疲れ、この次はおれだな」
 すれ違いざまに剛輝が宗太郎にそう話しかけたが、宗太郎には聞こえていなかった。
 宗太郎はただひたすら考えこんだ。検定開始のとき、いきなりサイドスタンドをもどすのを忘れた。そのあと発進でいきなりエンスト。もっとも恐れていた坂道発進で案の定失敗。卒業検定での失敗を思い出し、これはもうダメだろうとしか思えなくなっていた。
 加えて、うまくいったと思っていた他の課題も、もしかすると失敗だったかもと思うようになった。
 一本橋はあれで七秒持ちこたえたのだろうか?
 スラロームは八秒以内で抜けられただろうか?
 急制動では本当は十一メートルの線を越えてはいなかっただろうか?
 法規に従う走行が本当にできていたのだろうか?
 考えれば考えるほど、ますます不安になっていく宗太郎だった。


posted by エビフライ飯 at 22:19| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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