2010年11月05日

10.騒動、そしてそのあと

「もしもし、美琴ちゃん?」
 美琴の携帯電話に綾子が連絡をしてきたのは、午後二時をすぎたころ、美琴が大学の構内にいるときだった。
「おばさん、どうしたの」
「宗太郎が……宗太郎が教習所から帰ってこないのよ」
「ソウちゃんが?」
 美琴は綾子の言葉を聞いて、何が起こったのかと思った。その間に綾子は話を進めた。
「今日は宗太郎、教習所で技能の試験なのよ。それが終わったあと、わたしは宗太郎を連れて病院に行くつもりだったんだけど……」
「あ、例のアスペかどうかを診てもらうためにね?」
「そう。だから試験が終わったら、昼の二時までには家にもどるように言ったの。遅くなりそうなら、家に電話をするようにとも言ったんだけど、連絡が全然ないのよ」
「ソウちゃん、ケイタイは持ってる?」
「それが、持ってないのよ。あの子、友達と電話で話をすることなんてないから持たせてなくて、本人も持つつもりがないから」
「はー、それじゃ、どこにいるかがわからないのか……」
 美琴は一気に心配になった。いったい宗太郎は今、何をしているのか。どこにいるのか。
 綾子は次にこう言ってきた。
「それでね、教習所からも電話が来たのよ。『おたくの息子さんが本教習所から突然、姿を消しました』って。それでうちに帰っていないか聞かれたんだけど……帰っていないのよ。どうやらあの子、まだ教習所に残ってなくちゃいけないのに、途中で出てしまったみたい」
「卒検で何かあったのかもしれないわね。教習所を抜け出すほどだったら、その可能性があるわ」
「本当のところはわからないけど……それでね、美琴ちゃん。もうひとつ教習所から言われたことがあって、それを美琴ちゃんにたのみたいの」
「え? 何?」
「丸木が原教習所に行ってもらいたいのよ。家の人が来てくれませんかって言われて」
「何でわざわざ? 事情を言うなら電話でこと足りるじゃない」
「それがねえ、教習所に、宗太郎の親に会わせてくれってしつこくたのむ人がいるんですって。それに手を焼いているから、申しわけありませんが来てくれませんか、ですって」
「何よそれー? 何で見ず知らずの人がそんなことを?」
「わかんないわよ。でもわたしはこのあと宗太郎と病院へ行く予定が入ってるし、もしかしたら宗太郎が帰ってくるかもしれないから、ここを動けないの。だから申しわけないんだけど、宗太郎のいとこということで、わたしの代わりに行ってもらいたいのよ。突然のことで勝手なお願いなんだけど……」
 少しの間、美琴は考えた。このあと美琴には受ける講義があるのだが、美琴の答えはこうだった。
「わかった。実は講義があるんだけど、ソウちゃんが心配だもの。それを思えば、講義のひとつやふたつ、犠牲にできるわ。今から行くね、教習所」
「ありがとう。ごめんなさいね、無理言って……」
「気にしないで。あたしだって、ソウちゃんのことが気がかりだもの」
 美琴は動揺した心の綾子を落ち着かせるように言った。

 美琴は自分のバイクを走らせ、丸木が原自動車教習所まで来た。
 受付に来るなり、美琴は言った。
「あの、あたし春川といいます。高原の、高原宗太郎のいとこです。親の代わりに……」
「高原? あんた、さっき高原って言ったよな?」
 突然横から、そんな少年の声が聞こえた。美琴は驚き、声のほうを向いた。
 少年はさらに言った。
「高原宗太郎くんの知り合いっすか?」
「え、うん。あたし、彼のいとこだけど……何か?」
 美琴はとまどいながら答えた。
「おれ、梅島っていいます。高原くんとはよく、教習のときにいっしょになったんで、知ってんです」
 その少年は剛輝だった。そう言われた美琴がまたとまどいの表情を見せる間に、剛輝は話を進めていった。
「それで、おれ今日の朝、高原くんといっしょに卒検受けたっす。でも終わったあとに、高原くん、突然いなくなって……で、おれも気になるんで、高原くんの家の電話番号聞いて、家に電話して、詳しいことを伝えようと考えました。なのにここの教習所、個人情報の保護だとか言って、おれに番号教えてくれねえんだ。だから『じゃあ親をここに呼んでくれ』ってたのんで……」
「待って」
 話の途中で、美琴は呼びかけた。そして剛輝にこう言った。
「梅島くんといったわね。会わせてくれとしつこくたのむ人がいるって、高原のお母さんから聞いたけど、あなたなのね?」
「はい……すんません。変なお願いして」
 気まずくなったのか、剛輝はうつむきながら、さらにぺこりと頭を下げた。
「気にしないで」
 気まずい思いや、申しわけない様子でいる相手に対し、美琴がよく口にする言葉である。美琴は剛輝にも、その言葉を言った。
「じゃ、詳しく事情を聞かせてくれる? あそこで」
 美琴は教習所内の、教習生が休憩する空間を指さした。

 美琴は剛輝から、今日の卒業検定からそのあとの経緯について、話を聞いた。
 次のようなことがあったという。
 卒業検定を終えた宗太郎は、剛輝が見たところ、深くがっかりしていた。うまくできなかったのだなと、剛輝はそのとき思った。そして剛輝も受検し、検定がひととおり終わると、剛輝は宗太郎のところへ行こうとした。しかし、もうそのとき宗太郎はどこに行ったのかわからなくなっていた。しばらくたって結果発表がおこなわれたが、そのときも宗太郎はいなかった。剛輝は心配だと思い、宗太郎の親に事情を説明したくて、受付で電話番号を聞きだそうとしたのだった。
「ソウちゃんのことを心配してくれたのね。ありがとう」
 軽く笑みを浮かべ、美琴は剛輝に感謝の意を表した。剛輝はその言葉に照れた。
「ええ、まあ、いっしょにいることが多いと、何ていうのか、気にならないわけがなくて……」
「まあ、事情はだいたいつかめたわ。じゃ、あたしはソウちゃんのお母さんに、そのことを電話で伝えとくわ」
 美琴はそう言いながら立ち上がり、いったん教習所の外に出た。そしてそこで、自分の携帯電話から綾子に連絡をした。
「もしもし、おばさん? 美琴です。さっき教習所に着いて、おばさんが言ってた、例の会いたいと言ってた人に会ったわよ。それでその人っていうのが、歳がソウちゃんと変わらないくらいの男の子なのよ。教習でソウちゃんの顔を知ったらしくて、その彼もソウちゃんと同じ時間に検定受けたんだって」
「それで、宗太郎について何か言ってた?」
 綾子の心配そうな声が受話口から聞こえた。それを受けた美琴は、さっき剛輝から聞いた話を綾子に伝えた。
「そうだったの……あの子ったら、いったいどうして途中で何のことわりもなく出ていったのかしら」
「どうしてか、本当のところはわからないわ。あたしの推察だけど……ソウちゃん、検定で失敗して、それで結果発表を聞くのがこわくて、出ていっちゃったんじゃないかと」
「何でそれぐらいでそんなことを……ああ、もう病院はキャンセルしなきゃ。せっかく時間がとれたのに……やっぱり検定を別の日にするように言えばよかった……」
 綾子がグチを言い始めた。これは延々とグチを聞かされるなと美琴は思い、締めの言葉を綾子に伝えた。
「あ、じゃおばさん、ソウちゃんのことで何か動きがあったら、連絡してね。それじゃ」
 美琴は電話を切った。

 その後、美琴はいったん自分の住居にもどった。宗太郎のことで連絡が入るのを、ここで待つことにしたのだ。
 部屋の中には剛輝もいた。美琴は彼を自分のバイクの後ろに乗せて、ここに連れてきたのだ。剛輝が他人ながら宗太郎のことを心配してくれていることで、美琴はどうしてそこまで思ってくれるのかを聞きたい思いがあった。そこで美琴が「もっと話を聞かせて」と提案し、剛輝も了承したのである。
「おれ、学科教習受けてたとき、初めて高原くんの顔を見たんです」
 剛輝は美琴に話をしていた。
「とにかく目につくヤツでした。教官が話をしてるときでも、どこを見ているかわからないくらいに、あちこちをキョロキョロ見てるし、教本の内容を読んでいるのか、こっちに聞こえるくらいボソボソ、ブツブツと声を立てていました」
 美琴はだまって剛輝の話を聞いていた。
「それで、技能教習のときにも高原くんがいて、そこで『ヤツも二輪の教習生か』とわかったんです。いつも無愛想に見えて、他の教習生のだれとも話をしないみたいだったんで、おれのほうから話しかけてみたんです。でも、高原くんはおれのことを無視ばかりして、返事もろくに返してくれなくて……」
「梅島くんは、ソウちゃんと友達になろうとしたの?」
 沈黙を破り、美琴がたずねた。
「そのつもりでした。見ていてちょっと変わったヤツだなあ、とは思いましたが、教習はいつも一生けんめい受けてるように見えたし、悪いヤツじゃないと感じましたから」
「そっか……でも梅島くん、そこまでソウちゃんのことを心配してくれるのは、どうしてなの?」
「ほっとけなかったんです。高原くん、よく教官からどなられていて、それで教習が終わると、たいていしょげていました。だからおれは、彼をはげます意味もあって、話しかけ続けたんです。でも、その思いは伝わらなかったようです」
 剛輝の話を聞いて、美琴は思った。やはり宗太郎は教習のときに、相当心も体も疲れる思いをしたのだ。剛輝はそんな宗太郎を気づかってくれているというのに、当の宗太郎はそれがわからずにいる。もどかしく感じた美琴だが、これもまた「他人の気持ちを読み取ることの困難さ」という、アスペルガー症候群の特徴なのだな、とも思っていた。

 それから時間はいたずらに過ぎた。何の連絡もないまま、西の空に位置する太陽の光は薄れていった。
「もう、何してんだろ、ソウちゃんたら……」
 少しいらだち始めた美琴が言った。そんな美琴の様子をうかがうように、剛輝は美琴に話しかけた。
「あの……ひとつ質問していいですか」
「ええ、なーに?」
「高原くんって、どこの学校通ってんですか」
「えっと、ソウちゃんは海城(かいじょう)高校だけど……」
「え、ほんとですか? 海城って、相当レベルが上位にあるとこじゃないすか」
 剛輝は驚きながら言った。
「まあ、そうよね」
「そんなにいいとこ通ってんのに、何で高原くん、自分の学校を言いたがらなかったんだろう……」
 剛輝は不思議に思った。
 しかし美琴には、その理由はだいたい察しがついていた。宗太郎は海城高校に在籍しているが、通ってはいないのだ。そんな状態で自分の学校など言えるはずがない。
「あの、梅島くん」
 美琴は正面から剛輝の顔を見て言った。
「は、はい」
「どんなに上位校でもね、そこが本人に合ったところとは限らないものなのよ」
「はあ」
「学校が合ってなければ、楽しいとは思えないよね」
「確かにそうです。ってことは、高原くん、学校が合ってないんですか」
「もうついでだから言ってしまうけど、ソウちゃん、今学校には行ってないの。学校でいろいろと傷つく思いをしてね。しまいには行けなくなってしまったの」
 剛輝はその話を聞いて、大きく目を見開き小さくポカンと口を開けた。美琴は話を続けた。
「それであの子、固く心を閉ざしてしまったの。だからソウちゃん、梅島くんのことを無視してたんだと思う。悪気はなしに」
「そうだったんだ……おれ、高原くんのそんな事情を知らずに、一方的に無愛想なヤツだなんて思ってました」
 剛輝は後頭部を右手で軽くかいた。
「気にしないで」
 また美琴の口グセが出た。続けて美琴は言った。
「梅島くん、できるだけでいいから、ソウちゃんの友達になってあげて。今のあの子には友達が必要な気がするのよ。あなたがソウちゃんの心の支えになってくれたらいいな、って思うのよ。お願いできるかしら」
「は、はい……」
「あ、梅島くん、今あたしがソウちゃんの事情について話したの、本人には内緒よ」
 美琴は右手人さし指を自分の口元に当てた。それを見た剛輝は笑みを浮かべながら答えた。
「わかりました」
 それからしばらくして、ようやく美琴の携帯電話から着信メロディが聞こえた。すかさず美琴は電話を取った。
「美琴ちゃん、見つかったわよ、宗太郎が」
 綾子の声だった。美琴はそれを聞くと、すぐさま大きめの声を出して綾子にたずねた。
「えっ、どこに? どこにいたの?」
「菊地原(きくちはら)駅前にある外科医院ですって。そこから電話が入ったのよ」
「外科? 何でそこに?」
「どうもケガをしたらしいの」
「ケガ? 何があったの?」
「まだくわしくはわからないんだけど」
「それに菊地原っていったら、教習所からもそこの家からも、かなり離れてるところじゃ……」
「だから、こっちもどうしてか、わからないのよ。今わたし、駅の改札前にいるの。これから電車で菊地原まで行くから」
「そう、じゃ、こっちもこれから行くわ。菊地原駅の前の外科医院ね。連絡ありがとう。それじゃ」
 美琴は電話を切った。かなり興奮した状態で話をしたのが、美琴本人にもわかった。そして美琴は、さっそく剛輝にもそのことを言った。
「梅島くん、ソウちゃんが見つかったって。これからバイクで菊地原まで行くから、いっしょに行きましょう」
「は、はい」
 剛輝は美琴にせかされるように、教習所から強引に借りた貸し出し用のヘルメットを手に取った。

 菊地原駅前の外科医院には、綾子のほうが先に到着した。
 院内を見渡すと、待合室の長いすにひとりの少年がすわっているのが見えた。その少年こそ、宗太郎だった。左手に包帯が巻かれていた。
「宗太郎」
 綾子は思わず名前を呼んだ。自分の息子の近くに着くなり、綾子は言った。
「もう、今までどこに行ってたのよ。連絡もしないで」
 心配が安心に切り替わった瞬間に出た、綾子の言葉だった。しかし、宗太郎は綾子の思いなどどうでもいいかのように、こんな言葉を放った。
「ずいぶん来るのが遅かったじゃんかよ、母さん」
 それを聞いた綾子は、一瞬体が固まった。さらに宗太郎は言った。
「どれだけここで待ったと思ってんだ。まったく、あんまり待たせんなよな」
 その言葉のあと、一秒もたっていない間に、綾子の右手が宗太郎の左ほおを、パシーンと高い音を立てて打ちつけた。
「バカっ! 何を言うのこの子は! こっちがどれだけ心配したかも知らないで……」
 綾子の目から涙がじわっと出ていた。
 そのころ、美琴と剛輝がひと足遅れて到着した。待合室に来たのは、ちょうど綾子が宗太郎をたたいたときだった。
「おばさん……!」
 美琴は驚いて、一瞬息をつまらせた。
「何しやがる」
 怒った宗太郎が、綾子の胸ぐらをつかんだ。それでも綾子は動じず、宗太郎をしかり続けた。
「来るのが遅いって、それはこっちが言うことよ。勝手に教習所を抜け出して、そのままもどりもせずに、どこかへ行って……勝手なことばかりして、どういうつもり」
「うるせえ! この」
 宗太郎はつかんでいる綾子の服を引っ張った。綾子はその手を自分の両手でつかんだ。
「宗太郎、そうやってすぐ怒らずに、自分に非があるって認めなさい。自分が悪いと認めて反省しなさい!」
「うるせえ! 説教するなあ! どいつもこいつも、おれをバカにしやがってー!」
 宗太郎は涙交じりに叫んだ。
 その様子を見た美琴は、すぐにかけ寄ってふたりの間に入り、お互いの手を離させた。
「やめて、ソウちゃん」
「美琴ちゃん!」
 綾子が声をあげた。
「ミコちゃん……」
 宗太郎の目に、見慣れた顔が見えた。その後ろに目をやると、これまた見覚えのある顔が見えた。
「き、きみは……」
「いっしょに高原くんの居場所がわかるのを待っていたのさ。それでここにもいっしょに来たってわけさ」
 剛輝のその言葉のあと、美琴は剛輝のほうへ手をかざしながら、宗太郎に言った。
「彼、ソウちゃんのことを心配に思ってくれていたのよ。教習所からソウちゃんがいなくなったら、おばさんとこに連絡しようと考えたくらいよ」
「へ、へえ」
 気のない返事を、宗太郎はした。
 するとそばから、中年の男性が近づいてきた。
「あの、お取りこみ中すみませんが、お母様にちょっとお話が……」
 綾子に何か用があるようだ。それを察した美琴は、綾子のほうを向いて言った。
「おばさん、あの人、おばさんに用があるみたいよ。ここはあたしがソウちゃんと話をするわ。だから、おばさんはあの人のところに行ってて」
「うん、わかったわ……」
 綾子はこの場を美琴にまかせることにし、男性と別の場所へ移動した。
「ねえソウちゃん、何があったの? おばさんにたたかれるなんて」
 心配そうに美琴がたずねた。ふてくされたように横を向いたままで、宗太郎は答えた。
「フン、おれがただ『来るのが遅い』って言っただけだよ。そしたら母さん、たたきやがった」
「当たり前よ。こんなときはまず『ごめんなさい』って言わなきゃ。何でそんな空気が読めないこと言うのよ」
 美琴の心配は、あきれの気持ちに変わった。
「空気を読む? 何言ってんだよ。空気に何か字でも書いてあるのか」
「いや、そうじゃなくてね。どうして人の気持ちを踏みにじるようなことを言うのかって言ってるの」
「何だよ。ミコちゃんまでおれに説教か。すっかりオバサンになったな」
 ここまで会話をして美琴は思った。やっぱり宗太郎は場の空気が読めず、他人の気持ちも読み取れないのだ、と。
 そして美琴は、宗太郎の左手に巻かれている包帯に目がとまった。
「手をケガしたんだ……」
「ああ、さっきのおっさんの車にはねられたんだ。ま、コンビニの駐車場の中での事故だったから、これぐらいですんだけど」
 宗太郎はたんたんと、そう言った。さっきのおっさん――今ここから少し離れたところで綾子と話をしている中年男性。あの人がこの医院に連れて行って、綾子に連絡したのだな、そして今、おそらく綾子と示談交渉をしているのだなと、美琴は思った。
 美琴はあらためて、宗太郎のことについてたずねた。
「ねえ、くわしく教えてくれないかな。ソウちゃんが教習所を出てから、そんなケガをするまでのこと」
「うん、あのな……」
 宗太郎はケガをした自分の左手を見ながら、静かな口調で話し始めた。
「おれ、検定が終わったあとに検査に行く病院で、何か恐ろしいこと言われるんじゃないかって不安になって……」
「検査? どこか悪いのか?」
 それまで美琴の後ろ側で何も言わずにいた剛輝が口を開いた。しかしいつものとおり、宗太郎はそんな剛輝の言葉を無視して、何も答えないのだった。
「あ、ソウちゃんにも人には言えない事情があってね。ソウちゃん、話の続きを言って」
 美琴が助け舟を出した。その言葉に従い、宗太郎は話を再開した。
「それでもう、どこか遠くへ行きたくなった。どこへ行くかなんてわからなくて、ただひたすら歩き続けた。そしたらこのあたりに来てた。いろいろ頭の中でぐるぐると回ってた。おれ、やっぱり頭がおかしいんじゃないか、結局何もできない根性なしなんじゃないか、もういっそ、死んだほうがいいんじゃないかって思った。そしたら知らない間にコンビニの駐車場に入ってて、気がついたら車が来て、おれの体をはねて……ここに連れてこられた。骨はどこも折れてなかったけど、転んだときに地面で思い切りすりむいて、こうなった」
 宗太郎は包帯が巻かれた左手を高く上げた。すると美琴がたずねた。
「でも、どうしてだまって教習所を出たの? 病院へ行きたくなかったにしても、せめて結果発表を聞いてからにすればよかったのに」
「こわかった」
 宗太郎はぽつりとそう言った。
「え?」
「結果を聞くのがこわかった。おれ、検定でちっとも思うようにできなくて、結果はどうせ不合格だろうって思った。でも実際にそれを聞くのが……」
「そんなことないぜ!」
 剛輝が話をさえぎるように言った。
「高原くん、合格してたぜ。結果発表のとき、全員合格って言われたもん」
「え……」
 宗太郎は驚いた。しかし剛輝からそう言われても、すぐには信じられなかった。
「そうよ。あたしも今日の昼ごろに教習所に行って、そこの検定員に聞いたの。そしたらソウちゃんは合格だったって」
 美琴もそう言った。
「おれ……合格?」
 宗太郎の問いに対し、美琴も剛輝も大きく首をたてに振った。しかし、それでも宗太郎は信じられない思いが消えなかった。
「だって、おれは失敗しまくったんだぞ。始まりでいきなりエンストしたし、坂だってうまく発進できなかったし、それに他にも何個も減点になってるだろうし……」
「その減点が合格ラインでとどまったのよ。検定員から聞いたけど、エンストはそれほど大きな減点にはならないんだって」
 美琴が言った。すると美琴は自分のバッグから、大きな封筒を取り出した。そして中に入っている一枚の紙を出して見せた。
「これ、検定の合格証書。あたしが教習所でもらってきたのよ。これでわかったでしょ。ソウちゃんは本当に合格だって」
 合格証書を見た宗太郎は、ようやく自分が卒業検定に合格したことを実感できた。さらに美琴は言った。
「それでね、ソウちゃん。あなた、やっぱりものごとに完璧を求めすぎ。前に言ったでしょ。完璧を求める必要はないって。たかが卒業検定なんだし、気負わずにいけばよかったの。まあダメでも次があるさ、ってつもりで。だったらこんな騒ぎにならずにすんだかもしれないのに」
「そんなこと言われたって、できないよ」
「まあ、難しいかもしれないわね。でも普段から、そういう考えをするように心がけてみて。あんまり完璧を求めてばかりだと、疲れちゃうよ」
 優しい口調での、美琴の助言だった。そのあとすぐに剛輝もこう言った。
「高原くん、合格ってことは、きみは検定中止になるような大きな失敗がなかったってことじゃんか。おれなんて、今回は合格できたけど、前は一本橋で脱輪っていう大失敗をして不合格だったんだからな」
「そうか、あんなおれの運転でも合格だったんだ……」
「そうさ。喜んでいいんだぜ。高原くん、学校へ行ってない分、ひとつのことを達成できたんだから」
「梅島くん――!」
 剛輝の言葉を聞いた美琴は、すぐさま険しい表情となり、「言っちゃダメじゃないの」と伝える意味で、人さし指を口元にくっつけた。それを見た剛輝も、「あ、しまった」と言いたげな顔になっていった。
 宗太郎は衝撃を受けた。自分が学校へ行っていないことを、剛輝はなぜか知っていた。自分の知られたくないことを知られたことで、宗太郎はこの上なく悲しく、恥ずかしい気分に陥った。体中がかあっと燃え上がり、不快な汗が出るのを感じた。
「何で、何でバレたんだ……」
「ソウちゃん、ごめん! 梅島くんに話しちゃったの。あなたのこと」
 宗太郎の様子を見た美琴は、申しわけない気持ちで両手を合わせ、宗太郎に頭を下げながら言った。
「ミコちゃん、何で……!」
「梅島くんが、ソウちゃんと友達になろうとしてたから、それで、ソウちゃんのことを教えたのよ。梅島くんには内緒にしてねって言ったんだけど……」
「ああああ……どうして……」
 宗太郎は頭を抱えた。そしてそのまま、自分の思いをはき出すように言った。
「どうしてくれんだよ。学校に行ってないってことが、バレちまったじゃんかよ」
 宗太郎は体をふるわせていた。
「おれもごめんよ。口止めされてたのに、ついポロッと言っちまって」
 剛輝も申しわけなさそうに言った。それから少し間を置いて、剛輝は宗太郎にこう問いかけた。
「でも高原くん、きみ、学校へ行かないのを、どうしてそんなに気にするんだ? どうってことないじゃんか」
 それを聞いて、宗太郎は体の動きを一瞬止めた。
「人と違うことだから……普通じゃないから……」
 そう言う宗太郎に、剛輝は静かな口調で話しかけた。
「あのな、普通の高校に行くことがすべてじゃないぞ。おれみたいに通信制の高校に行ってるヤツもいるし、学校に行かずに高認に挑戦というヤツだっている。高校以外の道を選んでるヤツは、いくらでもいるぜ」
 高認とは「高等学校卒業程度認定試験」の略で、高校中退者など何らかの事情で高校を卒業できなかった人が、卒業の資格を得る試験である。これに合格することにより、大学や専門学校への道が開ける。
「うーん……」
 宗太郎は思い悩む表情を浮かべた。さらに剛輝は宗太郎に助言をした。
「普通に学校へ行かなくても、自分に合うと思う道を選ぶのが、いいんじゃないかな。なんて、えらそうなこと言っちまったけど」
「あたしも、梅島くんの意見に賛成」
 美琴が言った。
「何も他の人と同じように行動しよう、普通でいようと考える必要はないって、あたしも思う。ま、どうするかはソウちゃんの判断次第ね」
 そう言われた宗太郎は、なおも思い悩んだ。今まで自分はどこへ行っても「変なヤツ」と言われた。変じゃなく普通でいたいと、切に願っていた。しかし剛輝と美琴は、それに異議をとなえた。普通でいる必要はない、と。
 しかし、今の宗太郎はすっかり「普通でない=変」という思いに包まれていた。もう変なヤツだと思われるのはイヤだと感じていた。そのため、普通でいる必要がないと言われても、簡単に受け入れることはできなかった。
「うーん、でも……」
「普通じゃないってことが、そんなにイヤか?」
 剛輝がまた問いかけた。宗太郎は大きくうなずいた。そしてうわごとのように、宗太郎は言うのだった。
「普通でいたい……もう変なヤツだと言われたくない……普通の頭になりたい……」
 宗太郎が思い悩む様子を目にして、剛輝はこう言った。
「どうしてそんなにも普通になりたがるんだ。わかんねえんだよ、それが」
「な、何っ」
 宗太郎は目をつり上げた。
「普通っていう、決まった道から外れることを恐れてるからじゃないか?」
 ズバリ剛輝の言葉のとおりだった。宗太郎は自分が普通でないと見られていることに、少なからず恐怖を感じていた。だから普通になろうと常々思っていた。
 剛輝はただ、宗太郎に今一度問いかけただけだった。だが宗太郎には、それが自分の気にしていることを突っつかれたように感じられた。そのため宗太郎は怒りの表情をあらわにした。
「う、うるせえ!」
 宗太郎は剛輝につっかかろうとした。しかしすぐさま美琴が、宗太郎の胸あたりに遮断機のごとく腕を一文字に出して、それを静止した。
「また! やめなさいよ」
 そして美琴は宗太郎を抑えながら、剛輝に言った。
「梅島くん。悪いんだけど、これからソウちゃんとふたりで話をするね」
「はい、おれはかまいません」
「ソウちゃん、あっちに行きましょ」
 美琴はまだ怒りの感情が残る宗太郎を引きずるように連れて、少し離れた場所へと移動した。

「なんだよ、あいつ。人の気も知らないで、えらそうなこと言いやがって」
「ソウちゃん、そんなこと言っちゃダメよ。梅島くんはソウちゃんのことを思って、ああ言ってくれたのよ」
 宗太郎と美琴は待合室の隅で、ふたりきりになって話をしていた。
「そんなことあるもんか。バカにしやがって」
「違うわよ。あれはソウちゃんを心配する気持ちから出た言葉なの。悪気はないはずよ。それにね、梅島くんは教習所でもソウちゃんをはげますつもりで、いつもあなたに話しかけていたのよ」
「それがどうした」
「あなたを友達として受け入れる気持ちがあったってことよ」
「おれはあいつを友達とは思ってない」
「何でよ。あの子、いい子じゃないの。ソウちゃんのことを心配してくれたのよ。家族でも親戚でもない、他人のあの子が」
「だからどうした」
「だから、それで何か思わない? 感謝の気持ちを感じない?」
「別に何も」
 それを聞いた美琴は、大きなため息をついた。
「あのねえ、ソウちゃんは友達がほしくないの?」
「そりゃいたほうがいいな、とは思うよ。でももう他人が信じられないんだ。今まで友達だと信じて、何人のヤツらに裏切られたかわからない。だからあいつのことも信用できないんだ」
 宗太郎は頭をかかえた。しばらく間を置いてから、美琴は言った。
「そうか……今までの経験が経験だけに、知らず知らずのうちに見えない壁を作るようになってしまったのね……」
 またしばらく間を置いて、美琴は言った。
「ソウちゃん、だからこそ、検査に行ってみなよ」
「何でだよ」
「ソウちゃんがそんなふうに思うようになってしまったのが、少しでもいい方向へ行くかもしれないから。もうここで言ってしまうけど……今日おばさんがソウちゃんを検査に連れて行こうと考えたのは、ソウちゃんがどのような心の持ち主かを調べるためだったのよ。それをもとに対処法がわかるから」
「どのような心か?」
「そう。これは自分を知ることでもあるのよ」
「自分を知る?」
「そうよ。自分が本当はどのような人間なのか、実のところソウちゃん自身もわからないでしょ? でもそれがわかれば、少しは安心できるとは思わない?」
「ミコちゃんの……言うとおりかもな」
「だったらぜひ、検査に行ってみて。今度はすなおに言うこと聞いて、ね」
 美琴の言葉に、宗太郎は静かにうなずいた。

 そのころ高原家では、敬次郎が留守番をしていた。
 宗太郎は検定合格、騒動はすべて決着した、これから家にもどるとの知らせの電話を敬次郎が受けたのは、夜の七時をまわったころだった。
「やれやれ、兄ちゃんもとんだ騒ぎを起こしてくれたもんだ」
 電話ですべての事情を知った敬次郎は、ため息まじりに言った。しかしすぐに、こう思うのだった。
《でも、兄ちゃん、ついに最後までやりとげたよな。やるときはやるヤツだったんだ。兄ちゃんのこと、少し見直したな》
 敬次郎は、まだ痛みの残る右足をちらっと見ながら、また思った。
《兄ちゃんは一度くじけそうになった。おれもこの足のせいで、くじけそうになった。でも兄ちゃんは再び挑戦して、それで合格できたんだよな》
 そして敬次郎は、心の中で決意するのだった。
《サッカー、まだ続けてみよう。一度あきらめかけていたけど、足が治ったら、またやってみよう。もうレギュラーは無理かもしれないけど、それでも練習だけは参加しよう――》

 宗太郎たち四人は外科医院の外に出た。外は夜のとばりが下り、すっかり暗くなっていた。
「じゃ、あたしは梅島くんを送って帰るね」
 美琴は宗太郎と綾子に言った。
「気をつけてね」
 綾子はそう言葉をかけた。そのあと美琴は宗太郎に言った。
「ソウちゃん、念のために言っとくわ。後日、運転免許試験場へ行って、学科の試験受けてね」
「あ、そうだ、まだそれがあるよな」
 美琴の言葉を耳にした剛輝が言った。宗太郎もぽつりと言った。
「試験場で、学科の試験か」
「そう。それに合格して、やっと免許が取れるから。今日の検定に合格しただけじゃ、免許取ったことにならないからね」
 まだもうひとつ、免許への関門が残っていたか。宗太郎はそう思うと、試験のことが気になりだした。しかし今度は学科だけなので、今日みたいに過度に不安になることはないだろう、まあ何とかなるのではないか、しかしもしダメだったら……そんな思いが宗太郎の中で錯綜していた。


posted by エビフライ飯 at 22:18| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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