2010年11月05日

1.初秋のタンデム

 自分はいったい何なんだ?
 宗太郎(そうたろう)は自分にそう問いかけてみた。しかし答えは見つからなかった。
 十六歳。本来ならば学校へ行き、友達とおしゃべりをしたり、学校の帰りに友達の家に寄って遊んだり、それが当たり前のようになっている歳のころである。
 しかし、宗太郎が今いるこの空間――自分の部屋へ友達を呼んだことなど、これまで何回あっただろうか。
 宗太郎がそう思うと、決まって思い出すことがあった。かつて友達だと信じていた人間から裏切られたこと、自分を攻撃し続けた周囲の人間のこと。宗太郎にとっては、思い出したくもない苦い体験だった。
「くっそおーっ!」
 宗太郎は枕をつかみ、放り投げて壁にぶつけた。
「くそっ、くそっ、ちっくしょおーっ!」
 宗太郎は叫びながら、床をこぶしでたたき続けた。宗太郎にとっては、言葉であらわしようのない怒りとくやしさがこみあげていた。

 九月。暦の上では秋となったものの、まだ暑さが残る。そんな日の午後だった。
 ドドドドドドドド……エンジン音を小気味よくひびかせながら、一台のバイクが一軒の家の前で止まった。乗っていたのは、春川美琴(はるかわ みこと)。二十歳の大学生である。
「ふう……」
 美琴はバイクを降り、大きく息をつきながらヘルメットを脱いだ。少し汗ばんだ前髪をかき上げながら、美琴は家の入り口ドアをちらりと見た。
「おばさん、何の用なのかなあ」
 ヘルメットをわきにかかえながら、美琴は入り口ドアの前で呼びかけるように言った。
「綾子(あやこ)おばさーん!」
 三十秒ほどして、ドアが開いた。中年の女性が出てきた。その人こそ美琴が呼んでいた人、綾子だった。
「あ、美琴ちゃん」
「おばさん、こんにちは」
 美琴は笑顔で綾子にあいさつをした。そのあと綾子は、申しわけなさそうな顔を見せながら、美琴に言った。
「ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」
「気にしないで。どうせ大学は九月半ばまで休みだし」
 美琴は笑みを浮かべながら答えた。さらに続けて、美琴は綾子にこうたずねるのであった。
「で、ソウちゃんだけど……かなり荒れてんの?」
「ええ。あの子、このところますますひどくなっててねえ……まあ、家に上がって。くわしいことは、それから話すから」
「うん」

 家に上がった美琴は、居間の中で綾子の話を聞いていた。
「今日もね、宗太郎は部屋の中で暴れたのよ。また昔のことを思い出して、気持ちが不安定になったみたいで」
 悩ましげな表情を浮かべながら、綾子は話をしていた。
「今日も≠チてことは、前もそんなことがあったってこと?」
「そう。どうも何日かに一度、周期的に不安定になってるみたいなのよ。本人、なかなか忘れることができないみたいで」
「何があったの? そんなに忘れられないことって」
 美琴の問いを受け、綾子は大きくため息をついてから言った。
「宗太郎はね、小学校・中学校ではずっと、他の子たちから激しいイジメにあっていたの。理由はわからないけれど、相当ひどいことをされていたみたい。机の中にゴミを入れられたり、ズボンとパンツを脱がされて廊下を歩かされたり……」
「ひどい。何でそんなこと……」
 美琴の口から、そんな言葉がつい出た。
「どうもあの子、いつも集団の中でひとりだけ浮いてしまうみたいなのよ。いつも孤立しちゃって、周りの子にからかわれて、それがイジメになってしまったの」
 綾子はさらに話を続けた。
「それを本人がなかなか言わなかったものだから、母親のわたしでさえ気づくのが遅れてね。でも、気づいたときはもう、あの子の心がズタズタになっていたのが、見ただけでわかったわ」
「つまり、それがソウちゃんに心の傷として残ってしまった、というわけね」
「ええ……でも今年になって高校に入って、それで少しは傷がやわらぐんじゃないかって思ったけど……高校でも同じことのくり返しになったみたいで、本人、二学期が始まってから一度も学校へ行ってないわ」
「じゃ、ずっと家の中にいるの?」
「そう。無理に行かせるのは逆効果だから、あえて容認しているんだけど……でも、別の学校に通わせるにしても、また同じことの繰り返しになりそうだし。それにもしかしたら、考えを変えてまた学校に行くようになるかもしれないと、わずかな望みもあってね」
「知らなかった……ソウちゃん、そんな状態まで追いこまれてたなんて……」
 美琴は綾子の話を聞いて、衝撃を受け続けていた。そしてひとつの疑問がわき、それを言葉にして発した。
「でも何で、ソウちゃんは浮いた存在になっちゃうの?」
「あの子は協調性に欠けるというか、自分から友達の輪の中に入る努力をしようとしないのよ。それも孤立する要因だと思うの。宗太郎にはその点を意識して、自分を変えるようにしなさいって、常々言ってるんだけどね」
 綾子はそう言って、うつむきながら深いため息をついた。
「はあ……親として息子をどうすれば救えるのかしら……って、美琴ちゃんにグチ言っても、しょうがないんだけどね」
「おばさん……」
 美琴はつらい気分になった。自分の親戚が目の前で頭をかかえるほど悩んでいる様子が、見ていて痛々しかった。そんな気持ちの中、美琴は口を開いた。
「それで、あたしを呼び出したのは、やっぱりソウちゃんをはげましてほしいから?」
「そうなの。美琴ちゃんは昔からうちの息子たちとは深いつきあいだから、宗太郎も美琴ちゃんの顔を見れば、少しは元気になれるんじゃないかと思って」
「いとこ同士だけど、きょうだいみたいな関係だからね。じゃ、さっそくソウちゃんの顔を見てみようかな」
 美琴はソファから腰を上げた。綾子もそれに続き、ふたりは家の階段をのぼっていった。

「宗太郎」
 綾子はドアの向こう側に向かって声を出した。となりには美琴がいる。ふたりは今、宗太郎の部屋の前に立っている。
 しかしドアの向こうにいる宗太郎は、返事ひとつしなかった。そこで綾子はこう言った。
「美琴ちゃんが来てるのよ。美琴ちゃんだったら、会ってもだいじょうぶでしょ」
「美琴だよ。ソウちゃん、開けてよ」
 美琴もドアの向こうの宗太郎へ声をかけた。
 すると、ドアのノブが動いた。ドアは静かに開いた。
「ミコちゃん……?」
 低く小さなひびきのする声が聞こえた。宗太郎が発した声だった。宗太郎は開いたドアのすき間から、ちらりと顔を見せた。
「ソウちゃん、ひさしぶり」
 美琴はほほえみながら言った。しかし宗太郎は特に目立った反応はせず、「ん」と言いながら、うなずくだけだった。そして宗太郎は再びドアを閉め、部屋の真ん中へと移動していった。
「え、ちょっと、ソウちゃん」
 美琴はドアノブに手をかけ、部屋の中を見渡せるまでドアを開けた。見ると、床にいろいろなものが散乱して、足の踏み場があるかどうかというほどだった。宗太郎がやけを起こして、そこにあったものを手当たり次第に投げつけたのだ。
「ちょっと何よこれ。そこらうちじゅう散らかしまくって」
 美琴はたまらずそう言った。宗太郎はそんな言葉など耳に入れないかのように、ぷいと横を向いた。
「ソウちゃん、どうしたのよ。ほら、あたしが来たってのに。何か言ってくれてもいいでしょ」
 美琴はそう言いながら、部屋に入ろうとした。すると宗太郎は突然、大声をあげた。
「入るな!」
 その声に、美琴は一瞬身をふるわせた。今まで美琴が聞いたことのない、宗太郎のせりふだった。それでも美琴は部屋の中に足を踏み入れた。
「何言ってんのよ。今まで何べんも、あたしをここに入れてくれたじゃないの」
「入るなって言ってんだろ!」
 宗太郎はそうさけびながら、近くの床にころがっていたペン立ての筒を美琴に向かって投げつけた。
「きゃっ!」
 美琴は驚いたが、筒をよけたので当たらずにすんだ。筒は音をたてて木目ばりの廊下にころがっていった。
「宗太郎! 何てことをするの!」
 綾子は宗太郎をしかりつけた。しかし宗太郎はふてくされて床の上に寝そべるのだった。
「違う……ソウちゃんじゃない……」
 美琴は小声でつぶやいた。
「あたしがよくいっしょに遊んだソウちゃんじゃない……まったく別の人に変わっちゃってる……」
 そのとき、美琴は自分と宗太郎の小さいころを思い出していた。

 美琴の父親と綾子は、きょうだいである。そのため宗太郎の高原(たかはら)家と美琴の春川家は、家族ぐるみのつきあいをしてきた。
 そのつきあいがすでに親密になっていた、十年くらい前のことだった。
「ミコちゃん、これ見てこれ見て」
 高原家に遊びに来ていた美琴に、当時六歳の宗太郎が乗り物の図鑑を持ってきて、開いて見せながらこう言ってきた。
「白バイっていうんだよ。『こうつうきどうたい』のおまわりさんが乗るバイクなんだ」
 それを聞いた美琴は、小さいのによくそんな難しい言葉を知っているな、と感じた。
「ここがリアサスペンション、ここがシート、ここがマフラー、ここがフロントフォーク。こっちがクラッチレバーで、こっちがブレーキレバー」
 さらに宗太郎は、そこに掲載されているバイクの写真のさまざまな部分を指さし、それらの名前を言ったのだった。いったい、いつどこでそれだけの名前を覚えたのか。当時の美琴は、宗太郎の知識量におおいに感心したのだった。
 そして、美琴が高原家に来たときは、決まって宗太郎がバイクの写真が多く乗ったパンフレットを好んで見ているのを目にした。そして「VJR、GPZ」などというように、バイクの名前を連呼していたのだった。
 宗太郎は、家で描く絵もバイクばかりだった。パンフレットの写真を見ながら、それを模写していたのだった。そのときの宗太郎は、とてもうれしそうに見えた。美琴は「この子はよほどバイクが好きなのだな」と思った。
 あのころの宗太郎は、とても明るい男の子だった。あの日、美琴はいっしょにいるだけで楽しかった。

 美琴は現在の宗太郎の姿を目にして、信じられない思いだった。あのころ、あんなに無邪気だった宗太郎の面影は、どこにも感じられなかった。輝きを失った目、暗さを感じる沈んだ表情で、笑顔が見えない。いったい何が、宗太郎をこのような姿にしてしまったのか。美琴はそう思わずにはいられなかった。
 だが、美琴は自分の弟のような存在である宗太郎を、どうにかして元気づけてやりたい、そんな思いも大きくなっていた。
 そこで美琴は、ふと思った。宗太郎が気に入りそうなことをしてやれば、少しは元気になるのではないか、と。その「気に入りそうなこと」となると、ひとつだけしか思いつかなかった。
 それはズバリ、バイク
 美琴は入り口の外側から、宗太郎に呼びかけるように言った。
「ねえソウちゃん、今からあたしといっしょに出かけない? あたしのバイクで。ソウちゃんは後ろに乗って、タンデムで行こうよ」
「タンデム?」
 そばにいた綾子が問いかけた。
「ふたり乗りのことよ」
 美琴はすかさず答えると、再び後ろ姿の宗太郎に向かって話し始めた。
「ソウちゃん、昔からバイク好きだったじゃない。だったらいっしょにバイクに乗って出かけようよ。気持ちいいよ、風がぬけていって。それでね、港まで行って、海を見に行こうよ。気晴らしになると思うんだけど、どうかな?」
 美琴の言葉を聞いた宗太郎は、ゆっくりと立ち上がった。そして美琴のほうに顔を向けてくれた。
「ソウちゃん、行く?」
 美琴の問いに、宗太郎は静かに小さくうなずいた。

 キュルルルル、ドルルルルルルルル……美琴の四〇〇ccバイクのエンジンが、セルモーターの音のあとで小刻みな低音をひびかせた。
「じゃソウちゃん、後ろに乗って」
 バイクにまたがる美琴は宗太郎に言ったが、宗太郎はバイクの後輪あたりを見るだけで、行動に移す気配が感じられなかった。
「どうしたの? 後ろ、乗ればいいのよ。ほら、ここにステップがあるでしょ。ここに足をかけて、あたしの後ろにすわればいいの」
 美琴はそう言いながら、後部座席の下のほうにある、足を乗せるためのステップを指さした。
 すると宗太郎は足を動かした。美琴が言ったとおり、ステップに足をかけ、後部座席にまたがった。美琴の言葉で、ようやく要領がわかったようである。
 そのとき、美琴はこんなことを思っていた。
《これ、説明しないと、わかんないことかな……》
 そして美琴は、後ろにいる宗太郎に大きめの声で言った。
「じゃ、あたしにつかまって」
 そう言われた宗太郎は、言われたままに美琴の体にしがみついた。しかし宗太郎の腕は、美琴の腰まわりではなく、胸のあたりをつかんでいた。
「きゃっ! どこさわってんのよ!」
 胸に妙な感触を覚えた美琴は、あわてて宗太郎の腕を振り払った。いきなりそんなことをされた宗太郎は、むっとした表情になって言った。
「何すんだよ」
「それはこっちのセリフよ。人のおっぱい、いきなりつかんで! 後ろに乗る人がつかまる場所っていったら、前の人の腰に決まってんでしょ」
 美琴は両手で自分の腰を指さしながら、さけぶように言った。宗太郎の信じられないおこないに、美琴は驚きとまどい、感情的になっていた。
 しかし、宗太郎はふてくされた顔で答えを返すのだった。
「ああ、そうかい」
「もう……信じられないわね」
 美琴は前方を向きながら、口をへの字に曲げていた。同時にこう思っていた。
《こいつ、他の女の子と接したこと、ないんだろうね……ま、ここは気を取り直して、行くとするか》
 そして美琴は、家の門まで見送りに来た綾子のほうを向いて言った。
「じゃ、おばさん。行ってきまーす」
「あまり遅くならないようにね。それと宗太郎、さっきみたいに、美琴ちゃんを困らせるようなこと、しないようにね」
 綾子は宗太郎に注意をうながした。だが宗太郎は、そんな母親の忠告にも耳を貸していない様子だった。
「ソウちゃん、今度は腰、つかんでるね」
 美琴は宗太郎が自分の腰に腕を回して、へそのあたりで両手を組んでいるのを確認すると、左手元のクラッチレバーをにぎり、左足の位置にあるチェンジペダルを踏んだ。カコンという音とともに、ギアが一速に入った。
 やがてバイクは、ブオーンという大きな音を立てながら、ゆっくりと発進した。動き出したバイクは徐々に速度を上げていった。

 美琴と宗太郎が乗ったバイクは、ドルーンと軽快なエンジン音を上げながら、街中を走っていった。
 美琴は途中、バイク用品店の前でバイクを止めた。
「ソウちゃん、いったん降りて」
 美琴は後ろにすわる宗太郎に言った。
「何で、ここで降りるんだ」
「ヘルメット。ソウちゃんがかぶるヘルメットを買うためよ」
「ヘルメット? おれもかぶるのか」
「そう。というより、かぶらなきゃダメなの。後ろに乗る人がかぶってなくても、違反になっちゃうからね。あたし、さっきまで警察につかまらないか、ヒヤヒヤしながら走ってたのよ」
「ふーん」
 宗太郎は美琴が話をしている間に、バイクから降りた。はたから見れば、話を聞いていないようにも感じられた。
 美琴はそのときの宗太郎の態度に少し気を悪くしたが、ここは大目に見た。
「じゃ、見てみようか」
 そう言う美琴についていき、宗太郎は店の中へ入っていった。
 バイク用品店では、ヘルメットの売り場はすぐにわかる。専用のたなにヘルメットが何個も目立つように置かれていて、わかりやすいのだ。
「これなんかどう? 色は黒で、渋めよ」
 美琴は売り物のヘルメットのうちのひとつを、宗太郎に見せた。ジェットタイプと呼ばれる、頭と耳のあたりは覆われるが顔は覆われない型である。
 しかし、宗太郎はさほど関心がないようで、現物を見せられても何とも思わず、何も答えなかった。
「じゃ、これはどう? こっちは色が白だけど、フルフェイスで、安全性は高いよ」
 美琴が次に見せたのは、さっきとは異なり、頭と耳はもちろん、顔まで覆われるヘルメットだった。これはフルフェイスと呼ばれる。周りの音が聞こえにくく、かぶったままでは飲食ができないという短所はあるが、美琴の言うとおり、安全性はこちらのほうが高い。美琴がバイクに乗るときにかぶるのも、このフルフェイスである。
 宗太郎はこのときも、何の反応も示さなかった。その様子を見て、美琴は言った。
「あー、まだソウちゃんにはわかんないか。どのヘルメットがいいかは。じゃいいわ。あたしが選んであげる。すいませーん」
 美琴は近くにいた男性店員を呼んだ。店員はすぐさま、ふたりのところへやってきた。
「はい、何でしょうか」
「あの、この子がかぶるヘルメットを探してるんですが」
 美琴は右手で宗太郎を指さした。
「はい。では、彼ぐらいの頭の大きさですと、Mサイズがよさそうですね」
 さすがというべきか、店員はどれぐらいの大きさがよいか、宗太郎の頭を見ただけで判断した。そしてフルフェイスを一個取り出し、宗太郎に差し出した。
「こちら、試着してみてください」
 宗太郎は店員からヘルメットを受け取った。しかし宗太郎は、ヘルメットをいろいろな方向から見るだけで、かぶろうとしなかった。店員の言葉が耳に入っていなかったようである。
「かぶってみていいのよ、ソウちゃん」
 美琴は小声で宗太郎に話しかけた。
「あ、そうなんだ」
 宗太郎は美琴に言われて気づき、ヘルメットをかぶってみた。
「どうですか? きついとか痛いとか、そういうのはありませんか?」
 店員の問いに、宗太郎は首を横に振った。かぶっているヘルメットもいっしょに動いた。
「あ、これならだいじょうぶですね。ヘルメットが頭にぴったり固定されていますね」
 店員は笑顔でそう言った。
「じゃ、サイズはMで決まりね。それみたいなフルフェイスでいい?」
 美琴がたずねた。ヘルメットをかぶったまま、宗太郎はうなずいた。
 しかし実は、宗太郎はどんな形のヘルメットがいいかなど、どうでもよかった。何もわからないので、バイクのことを知っている美琴や店員の言うとおりにすればいいや、と考えていた。
 結局、このとき買ったのは一万二千円の白のフルフェイス・ヘルメットだった。ブランドもののヘルメットは三万円から五万円するのが当たり前で、美琴は持っている金のこともあって、標準的で手ごろな値段のものを選んだのだった。
《とほほ、持ち金がほとんど飛んじゃった……でも、ソウちゃんの安全を守るためだもん。よしとしておこう》
 店を出て、美琴はそんなことを思っていた。

 再びふたりが乗ったバイクは、港の方向へ進んでいった。
 真新しいヘルメットをかぶって後ろに乗る宗太郎は、風を体で感じていた。風そのものならば、もちろん今まで何度も感じ取っていた。しかし今までのとは違う、感じたことのない「何か」があるように感じていた。
 普通に外に立っていれば風が少ない今日のような日でも、このバイクという乗り物に乗っていると、走っている間は常に向かい風が自分の横を過ぎていく。エンジンの音と同じくらいに、風が自分の腕に当たる音も聞こえてくる。フルフェイス・ヘルメットをかぶっていても、それは聞こえた。
 バイクの周りには風。走る間いつも吹き続ける風。周りの風景が次々と風にまぎれるように通り過ぎていく。宗太郎は、自分が風の中にいるように思えた。
 そこで宗太郎は思った。
 これは「風の世界」だ――
 その間にも、バイクは港へと突き進んでいった。

「学校、おもしろくないの?」
 美琴は宗太郎にたずねた。バイクは港に到着し、ふたりは正面向こうに広がる海を見ていた。
「ん」
 宗太郎は気のない返事をしながら、うなずいた。
「どうして? ソウちゃん、成績はいつもよくて、テストでも常に上位だって、おばさんから聞いたけど」
「だからどうした」
「いや、それだったら、みんなから一目置かれて、尊敬の的になるんじゃないかと……」
「バッカじゃねーの!」
 宗太郎はいきなり、吐き捨てるように言葉を発した。
「ソウちゃん……?」
「ミコちゃんって、相当なバカヤロウだな。尊敬なんかされるわけないじゃん。成績がいいから、かえって『えらそうに』って思われて、つまはじきだよ」
 宗太郎は、いささか乱暴な口調になっていた。
「……そっか、そんな目にあってたんだね……」
 うつむき加減で美琴は言った。このとき美琴は、宗太郎にとっては触れられたくないことに、知らずに触れてしまったと感じ、悪かったかなと思っていた。
 しかし宗太郎は、そんな美琴の思いもわからずに、こんなことを言ったのだった。
「そんなこともわかんないんじゃ、ミコちゃん、もう若くないね。脳ミソがオバサン化してるよ」
「ちょ、ちょっと何よ、その言い方。言っていいことと悪いことがあるわよ」
 美琴は怒りがこみ上げてきた。いとことはいえ、そんなことを言われていい気などするはずはなかった。そんな思いをはき出すように、美琴は宗太郎に言った。
「ソウちゃん、あなたひょっとして、学校の友達にもそんなこと言ってたんじゃない? それじゃ反感買うに決まってるわよ。だからイジメにあったんじゃないの?」
 しかし宗太郎は、フンとふてくされて横を向き、こう答えを返すのだった。
「ミコちゃんまで、おれが悪いって言うのかよ」
「いや、悪いとかそういうことじゃなくて、もうちょっと言葉に気をつけたほうがいいんじゃないかって、そう言ってるのよ」
「フン! えらそうなことを言うな」
 そのときの宗太郎は、半ばやけっぱちになっていた。そんな宗太郎の様子を見た美琴は思った。
《まあ、いろいろと悩みがあって、心が不安定になってるのかもね……よし、ここはおさえて、おさえて、と……》
 美琴は、心の中で自分にそう言い聞かせ、怒りをおさえるのだった。そのうえで、美琴は再び宗太郎に言った。
「それでさ、学校に行かないにしても、何か目標はない?『この職業についてやろう』とか『あの学校を目指すぞ』とか」
「何も考えてねえよ」
「そうなの? でも何の目的もなしに、このままずっと家にばかりいると、心も体も腐ってしまうよ」
「ほっといてくれよ。おれの気持ちなんかわかってないくせに」
 宗太郎はまた、やけっぱちな口調で言葉を返した。
 それから美琴は、宗太郎にかける言葉が見つからなかった。ヘタに何かを言ったら、また本人の気を悪くすることになりはしないかと思い、慎重になっていた。
 美琴が宗太郎にかける言葉に迷っている間、宗太郎は小声で何かをブツブツと、独り言を言っていた。
「風の世界……バイクの周りは風……バイクに乗れば風の中……」
 美琴の耳に、その言葉が入った。宗太郎が昔から好きなもの、バイク。やはりここはバイクの話をするのがいいか、美琴は思った。
 すると美琴の頭の中で、ふとあることがひらめいた。
《そうだ! 考えてみたら、ソウちゃんの歳って……》
 美琴はそう心の中でつぶやきながら、宗太郎に話しかけた。
「ね、ソウちゃん」
「ん」
「ソウちゃんも、自分でバイクを運転してみたいって、思わない?」
「自分でバイクを?」
「うん。ソウちゃん、確かもう十六だよね」
「何が」
「歳よ、歳。年齢。十六歳だよね」
「ああ、そうだよ」
「だったらね、普通二輪の運転免許、取れる歳だよ。これみたいに、排気量が四〇〇ccまでのバイクに乗れるようになるよ」
 美琴は自分のバイクを指さした。
「おれ、運転できるのか」
「免許を取れば、だけどね。そう、どうせ学校行かないんだったら、自動車教習所に通って、普通二輪の免許取りに挑戦してみたらどう?」
「うーん……」
 宗太郎はうなったあと、無言になった。それを見た美琴は、宗太郎を気づかうように言った。
「あ、無理に『やれ』って言ってるんじゃないのよ。ただ『挑戦してみたらどうかな』って、すすめているだけ。どうするか決めるのは、ソウちゃん自身の意思にまかせるよ」
 なおも宗太郎は無言のままだ。様子をうかがいながら、美琴は話を続けた。
「でもさ、免許を取ることは少なくとも『目標』にはなるわよ。目標目指して生活していれば、心も体も腐ることはないと思うな。結果生きてるうえでもいい方向へ行くんじゃないかな、って思うんだけど」
「うーん……」
 宗太郎はまたうなった。今迷っているのだなと察した美琴は、次の言葉をかけた。
「それにね、ソウちゃん、小さいころからバイク好きだよね。それだったら、乗せてもらうだけじゃなくて、自分で運転したいと思わない?」
 そのとき宗太郎は、さっきバイクに乗せてもらっていたときのことを思い出していた。
 初めて体験した、風が吹き抜けるような感覚。風の世界に入ったように感じた。もし自分がバイクを運転できるようになったならば、自分の意思で風の世界に行くことができるようになる。すてきなことかもしれない。そんなことを思っていた。
「今日買ったそのヘルメット。それはソウちゃんのものなんだし、やっぱりこれからも使わなきゃ、もったいないよね」
 美琴の言葉を聞いた宗太郎は、自分の手元にある真新しいヘルメットに目をやった。そしてポツリと言った。
「免許、か……」
 そのとき、宗太郎は頭の中で、今までに想像したことのない自分を思い描いていた。
 今手に持っているヘルメットをかぶり、バイクの運転席にまたがってハンドルに手をかけ、道の上を走っている姿を。風の世界へと、みずから入っていく自分を――
posted by エビフライ飯 at 22:36| 風の世界へ進め!〜あるアスペルガー少年の挑戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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